ゆっくりと

甘露に集う蛍のように、ちらり、ちらりと揺らぎながら、
柔らかな色の光の群はゆっくりと流れていく。



 暑い夜だった。
 蒸した日中の温度はいっこうに下がらず、太陽が山間に消えて後も空気は熱を保持したまま。寛げた胸元に送る風も、ねっとりと湿気を含んでいる。
 それでも、戻ろうと言う気にはなれなかった。
 傍らに佇む人が無心に水面を眺めている間は、せめて。


 初めて訪れた土地だった。
 腰の曲がった老婆から、今夜行われる祭の話を聞かされた。
 ささやかながらも昔からずっと、伝えられ、続けられているものだという。
 火を灯した蝋燭を和紙の船に添え、川に流すのだと。
 何の為かと問えば、皺だらけの顔がやんわりと笑い、教えてくれた。
 見慣れぬ者を拒絶はしない。思うところがあるなら行くがいい、とも。
 だから、ではなかったが。宿に戻り、誘ってみたのだ。
「眺めが良いらしい。行ってみるかね」
 窓縁に背を預け、何処からか手に入れてきた本に耽っていた横顔がさも不審そうに眼を上げた。
 のこのこと近寄れば小さな溜息を吐く。
「珍しいですね」
「気分転換という言葉をご存知か」
 そう肩を竦めれば僅かに気配が和らいだ。
「なら夕食は早めに済ませねばな」
「行くと言いましたか」
「拒否の言葉は聞いておらん」
 一瞬不穏な眼差しをしたものの、何処?と少なからぬ興味が返り、安堵した。
 そして宵の頃。
 宿の女将が快く夕飯の支度を早めてくれたお陰で、その気も変わらぬうちに現場へ着くことができた。
 其処は、両岸に葦の茂った川原が広く続き、流れも緩い大きな川だった。水深もさして無いのだろう、岸に近い混雑を避けるようにして、川の中程まで進んでいく人の姿も多い。
 そんな彼等の手に、ゆっくりと掻き分ける水面にも、和紙の船が漂っている。
 あちらでも、こちらでも。
 橙色の淡い光が、闇に沈んだ黒い川水に揺れる。
 微かに瞬く灯火のせいか。
 集まった人々から不思議と喧騒を感じられないでいた。話声は聞こえてくる。軽やかな笑いを縫って、子供達がはしゃいでいる。
 ゆうらりと流れる光の群成す、全ては影絵のようだった。
 川縁から少し離れた大木の下で煙草に火を点けた。
 それを一瞥すると、紫煙を避けるかのように一人川縁へ歩いて行く。
 気に入ったのかと思った。
 何事にも執着の薄い、無関心な人が。
 死せる者を送る水際へと歩いて行く。
 しっとりとした賑わいから少しだけ離れた場所。
 揺らぐ無数の帆影に、視線を据えたらしい。物言わぬ精神に何かが触れたのだろうか。
 沈黙を共にするしかなくて。二本目の煙草を咥え、寄せたライターの火にふっと影が落ちた。
 上げた眼が遭遇した丸顔の幼いはにかみ。小さな手には細い蝋燭。
「火か?」
 こくりと頷き、ずいと差し出す。望み通りにしてやると、危なっかしい手つきで炎に手をかざして笑った。
「気をつけるんだぞ」
 吊られた笑みで見送った先に親なのだろう、軽い会釈を寄越す妙齢の女がいた。駆け戻ってくる小さな背に手を添え、促した水際には、その火を待つ和紙の船が揺れている。慎重に火が移された灯篭の表に、墨書きの稚拙な文字が滲むように浮き上がってくる。
 凝った趣向も船を流す其々の想いなのだろうか。
 2人してそっと流れに押しやった後、母は、手を合わせるよう身振りする。
 幼子はその小さな手を見真似で合わせ、頭を垂れた。
 誰の為の祈りか。
 きっと判ってなどいないだろう。
「----亡くした人がいる」
 群集から離れている自分達へたまに投げかけられる関心もあるが、撫でるような軽さで深追いはしてこない。密やかなその無関心が心地好くもあり、むず痒くもあって。
 言葉が口を吐いた。
「改まった行為は何もしなかったがな」
 彼の人には聞こえていないのかもしれない。
 風が静かに水面を渡ってくる。
 佇む後姿に表情は見えないまま。
「あの時はさして必要を感じなかった。だがこんな風景を見れば、寄る辺があるのも悪くはないのかもしれんな」
 あの死は、事故と言えばそうだったのかもしれない。
 だが介在した人為が、決して善意によるものではなかった以上、決着をつけたはずの今となってもやはり残るものはあったらしい。
 忘れたいと願ったことはないはずなのに、蝋燭の小さな炎に胸が痛む。
 束の間現世に戻って来るという死者に手向けられた、優しい色をした送り火の群。水の流れに揺られていくのは、遺された者の後悔や無念であったのか。
「君はどうだろうな」
 ぼんやりと闇に溶けるような背に呟きかけてみても、灯籠の焔に淡く縁取られたしなやかな輪郭は、小揺るぎともしない。
 咥えたままの煙草にようやく火を点けた。吐き出す紫煙は、蝋の匂いを含んだ川風に千々と乱れていく。
 その時だった。
 ふうわりと、微細の光が視界の端で舞い上がった。
 ひとつ、またひとつと。
 青味を帯び、艶やかその光達。
 緩やかな風に逆らうことなく飛んでいく。
 蛍----と。
 思い至るのに、何故か少し時間がかかった。
「知りたいんですか」
 いつの間に振り返っていたのだろう。真直ぐに向き直ったその表情は無心。
「……いや」
「柄にも無い感傷は止しましょうよ」
「可愛げのない……」
 だからこそ聞かぬふりをしていたのかと苦味を飲み込めば、追い打つように祭の本陣へ視線を投げた。
「妙な気は使ってくれんでいい」
「気休めなど必要ありませんよね」
 そう言って微笑んだ白い貌に、飛び交う蛍がちらり、ちらりと青い影を落としていく。

老婆は言っていた。
彼岸の蛍光は人の心の宿り。
誰の、そして誰かの。
瞬く光は酷く物憂げだった。







End

20070412
後記:以前運営していたサイトで一番気に入っていた話。貧乏性なので自己リメイク

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