【朔】
通常業務 「美月乱」警告

 夜風にうららかな温もりが混ざる春半ば。西に傾く月は、柔らかな光で地上を照らしていた。
 静かな夜。
 街灯に滲む公園で、薄紅の彩りを謳歌しようと梢を揺らし、舞うように花を散らす木々さえも、碓氷のような気配に無口になっていく。
 静寂というに相応しい夜は、自らを演出したのかもしれない。
 穏やかさを欠いた今宵の出来事の為に----

 視界開けた道に響く、荒い息、乱れた足音。
 眼を血走らせた男が一人、もつれる足取りでやって来る。
 人気絶えた深更の通りを半ばも行かぬうち、男は派手に体勢を崩した。踏みつけたものが何だったのか、それは靴底でコロリと転がった。踏み留まれるだけの力はとうに失く、それでもどうにか膝をつき、立ち上がろうとさえした視界が、限界まで見開かれた。
 肩越しの地面にふらりと落ちる人の影。
 それは、男が動きを止めたと見るやこう言った。

「出生地はどこだって聞いてんだよ」

 闇に広がるハイ・トーン。涼しい響きに、優しさと暖かさは微塵もない。

「う、ぁッ……」

 男の腕がアスファルトを掻く。這いずってでも逃れようとする思いが、わずかな前進を果たさせた時だった。
 ドンッ、
 惨めな背にのしかかっていた、雰囲気という絶大な圧迫感が、現実的な重みにとってかわったのだ。あろうことか、踏み砕く僅か手前の力加減のみで、首筋を抑えつけるのは靴底だ。
 成す術もなく、アスファルトに打ちつけた鼻先を濡らす生温かいものに、男の潰れた咽喉が悲鳴を放った。

「やめ……っ!! 」
「なら、言え」

 男は答えた。渾心の力で腕を振り払うという行動で。
 怒りに任せたその一振りは、如何な力を持っていたのだろう。優位にあった細腰の身体は、物の見事に弾き飛ばされていたのだ。
 だが、月明り吸い込む鈍銀の瞳に何かが閃いたのは同じ刹那。
 態勢を乱すこともなく、足先からアスファルトに降りた若者は、無造作に、コートのポケットに押し込んでいた左腕を奮った。
 蒼い閃光の一薙ぎ。
 反射的に起こした半身を捻った男は、肩口を撫でた冷たい風と、重たい物音に眉を寄せたのも一瞬、路上に転がるその物体に、引きつった絶叫を上げていた。
 必死の形相で肩を抑えても、指先を濡らす温かいものは止まらない。
 男が胸に抱え込んだ右腕は付け根から先を失い、出来の悪いオブジェと化して、アスファルトの血溜まりで動かなくなっていたのだ。
 だが、叫びは断ち斬られた。
 若者が、左手に携えたものを男に突きつけていたのだ。蒼白く、自らが妖しい光放つ白刃。血糊さえ、溢れる狂気に紅い煙と消えていく。

「道はふたつ」

 微塵の躊躇いもなく、人間の腕を切り落とせる存在とは何なのか。

「“場”へ案内するか」

 悠然にすぎる様に凍りついた男は、飾りもない細身の一刀が、生白い腕へと移動する光景に絶望を見た。
 怜悧な切っ先が触れた刹那、それは、あろうことか風に散るのみの残骸となったのだ。ぬらぬらと、月光を跳ね返していた血溜まりさえ。
 奇怪な消失現象は巧妙な手品か、性質の悪い夢か。

「今ここで消されるか」
「……同じことを」

 膝つく男を見下ろす眼差し。冷たくも無機質に、些かの乱れもない。

「名もなき“鬼族”に興味ねえんだ」
「貴様……」

 男は、失せた血の気に首を振った。

「……なにを、企む……」
「仕事だ」

 己の仕出かした惨劇を知らぬ口調。
 ふっつりと、男に植え付けられていた恐怖が切れたのも当然だった。
 腕を失ったことは念頭にある。選択枝の全て、最後通告だとも。

「ぬかせ……」

 ゆらりと、その身体の輪郭が、水に流した墨のように霞んだのはこの時。

「裏切りモノがッ……!!」

 悪意の塊へ浴びせられたものは、怒声の爆発では終わらなかった。
 全ての力を乗せた怒りの伝わりは質量を備えた波動。闇よりも濃く、暗く、広がる気配。穏やかな季節を拭い去ったそれに、ぞろりと全身総毛立つ。
 街灯の下、這いつくばる男の姿だけがぽっかりと抜けていた。
 昏い、闇の色の穴----否。男はいた。
 人工の明りを陰らせた暗がりの中に。
 見えるのではない。闇の中にその気配を感じるだけだ。
 景色すら溶かしこんだ闇は、無表情な瞳には意味を為していないのか。
 とろりと、手に触れ得るほどに濃密な気配を持った闇が揺らぎ、軽やかに地を蹴った足元を掠めた。

「小物か」

 ビシッ、とアスファルトの表面をはじき、黒い尾を引きながら、速度を落とすことなく、更に若者を追う。
 ワン・ステップで数メートルの跳躍を果たした若者の、次の動きを予想していたかのように、先端をもたげて自在に空中を這うその動き、その姿はまるで----蛇。だが黒く不気味に光る体は鱗に非ず。
 闇に紛れた男は最早、人間の形を留めていなかった。
 本来あるべき力のみの形状。
 もしも今、月光を喰らうかのように濃度を増していくものを眼にすることの出来る者がいたならば、こう告げるだろう。
 絡みつくような邪気に満ちた----妖気と。
 日常では決して相容れない、どす黒い意思に支配された力は、押し縮めれば血を流す。吸い取ってきた生命の証。
 そして今宵もまた、闇に潜み、闇に生まれるものとして、新たな獲物を捕えようとしていた。
 あらゆる物理法則から解き放たれた触手で、反応速度の高い若者を補足したかのように見えた一瞬、またもや光が閃いた。
 闇に鮮やかな蒼い軌跡。
 真冬の月光を想像させる冴えた蒼さは決して、人工の明りでも、まやかしでもない。陽炎のように立ち上り、静かに炯めく光に熱はなく、穏やかな春の夜を撫でる風はむしろ、季節を逆行した冷たさを感じさせる。
 若者の携えるその一刀、眼前に広がる怪異と同じものなのか。
 使い手の放つ冷酷な気配をそのままに。
 男----だったものはそれを感じた。
 骨身を断たんとする総毛立つ音とともに、内側に侵入してきた絶対の冷気。
 さらりと返された狂刃が、闇の奥、ぴたりと切っ先を据る。
 白光の浸食に薄れ行く視覚に捕らえる無常の一瞬。

「憑く器を誤ったと思え」



 天頂に輝く月の下、風は止み、ただ花が散るばかり。







【朔】 通常業務 「美月乱」
20070423

image by 廃墟庭園

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