【朔】
通常業務 「里見省吾」

 新緑の香る風は鮮やかに春を匂わせる。
 桜色に染まったなだらかな傾斜に、小道が白く伸びていた。裾野より始まる長い行程は、幾たびも枝別れしながら、たったひとつの場所へと辿り着く。
 黒く、壮大な邸宅だった。
 青い池の端、流れるせせらぎを跨ぐように悠然と、爛漫と季節謳歌する風景の美しさの中、風雨に晒された歳月を格式に昇華させてそこに建っていた。
 ともすれば厳しい壮健さも、人の在る場所として機能していけるのは四季の移ろいに逆らわぬよう、麗らかさも、厳寒も、あらゆる陽の光を取り入れ、増築を重ねるうちに開放的になっていった造りのせいだろう。あるいは、経りすぎた時間にさえ馴染む、雑多な気配の賜物か。
 鞄を小脇に制服着崩した少年が一人、鼻歌交じりで携帯メールをチェックしながら、母屋と呼ばれる棟々を繋ぐ鈍色の小橋を歩いていようとも場違いを覚えずに済むのは、柔らかな陽射しのせいばかりでもないのである。

「あー省吾くん! いいところに来た!」

 少年が足踏み入れる比較的新しいこの棟は、板戸開けっ放しの部屋から手招きと、大声が飛んでくるような場所だった。
 慣れた様子で携帯を仕舞い、少年----里見省吾も、ほいほいと近寄っていく。

「毎度。なんでっしゃろか、」
「はい、これ。異常報告な」

 と、鼻先に差し出されたプラスチックファイル。差し挟まれているのは言う通り[異常報告]と題のある書類だ。

「たった今来たばっかのオレに、もう仕事させんのかいな」
「しっかり働け青少年。それ持って執務室へレッツゴー!」
「れっつやないわ。労働基準法違反やで」
「頼むって」
「師匠……やなくて、渡理(わたり)さんは?」
「休み。だから奥へ直通」
「うっわ珍しい。雪降るんとちゃうか」
「だろ。強制措置だってさ、ここんとこの次長、連続夜勤だったろ」
「なーるほど」
「納得したんならよろしく」

 そして、さっさと部屋へ引っ込んでしまった青年に、へーいと気のない返事。手の中のファイルを丸めて方向転換したのは、苦情述べても己の役割と心得るからだ。
 広大な屋敷の最奥へ向かうため、廊下を曲がり、部屋の前を通れば、声をかけられ、束になった書類を渡され、離れとも呼ばれるかつての本屋に入った頃には、役目によって省吾の両手はしっかり塞がっていた。
 忙しい母屋と違い、締め切りの襖戸が並ぶ旧本屋の“離れ”に喧騒は届かない。磨かれた板張りの廊下は整然と、歩く者をただ一ヵ所へ導いてくれる。

「人をパシリみたいに使いよってもう……」

 と零した目前は、重厚な光沢を放つ二枚扉。飾り彫りはなく、だが却ってそれが威圧感を醸し出すほどに大きい。そのくせ行儀悪く足先で押しても開いてしまうのは、緊急事態への備えだと知っている。
 それでも省吾にとっては通い慣れた場所。入室を躊躇う理由はなく、いつも以上に書類運搬仰せつかった意味を考えることもなかった。

「おっはようございま−す! 省吾くんでーす!」

 効果音がしそうな勢いに、能天気な挨拶を放ち、習慣的に視線を向けた部屋の中央、奥。雪見障子を背にした黒檀のデスクはさっぱりと片付けられ、座る者は今はない。
 広々とした部屋である。天井まで届く書架に壁面を占拠されながらも、狭さを一切感じさせない。業務に必要とされる物しか置かれていない簡潔さと、輪をかけた在室者の数。たった2人の侘しさだ。
 騒々しい入室に、にこやかな会釈をくれたのは扉近くの机に座る眼鏡の青年。かっちりスーツを着こなして、いかにも秘書の趣だが、少年が抱える書類に気付いて腰を上げる動作に厳しさはない。

「筆頭宛てですね。お預かりしておきましょうか?」
「決済と……あと異常報告もあるんで。待ってますわ」

 空き机に荷物を下ろし、指差したのは、もう1人の存在。書類山積みのデスクの端に寄りかかりながら電話中である。
 だが、ああも元気良く入室すれば、火急の話だろうと珍入者には気がつくというもの。見れば白いスーツの若者は、寄越せ、とばかりに手を出していた。

「ほい、ただいま」

 いそいそと寄った省吾が、頭ふたつは背の高い秀麗な横顔に、ポケットから出したファイルを差し出した途端だった。
 受話器から何やらもれ聴こえ、若者の肩が反応し、

「----ウダウダ言ってんじゃねぇこのハゲ! 明日明日っていつの明日だ!? いいか、今日中に戻って来ねぇんなら今後一切の出向は俺がやる。嫌ならさっさと帰って来い!!」

 罵声一発言い切り、反論も許さず受話器を本体に叩き付ける。
 その剣幕。判っていても身が竦む。
 舌打ちをして、更に電話本体をも殴り飛ばしそうな雰囲気に、省吾はようやく、母屋の連中がこの中枢機構へ近づこうとしなかった意味を理解した。
 しかし若者の方も、制服姿の使い走りが様子見していることは判っているようだ。山の書類から探るように灰皿を引き寄せ、やっと正面に向き直った。
 琥珀色の髪の下、眉間にくっきり縦皺を刻む精悍な美貌。切れ上がった眦や高い鼻梁には、開衿の黒いストライプシャツが似合うとしても、煙草を挟む長い指にシルバーリングをはめるラフさなど、さすがに重厚な部屋の雰囲気にそぐわないこと甚だしい。
 だが。険悪な眼差しのこの若者がこそ、この部屋の今を支配する人間だった。

「報告書か?」

 礼斎遼(あやときはるか)----『一条』と称する集団率いる最高幹部“筆頭”は、不機嫌沈殿させたまま。省吾が捧げるように書類差し出せば、ますます顔を歪め、咥えた煙草に火を寄せた。

「ソレは判事寮からや。5分くらい前かな」

 遼の視線が報告書に落ちたのを確認。ひとつ紫煙を吐く間をもうけて回れ右をしかければ、待て、と止められ、今度は黒い皮製の書類綴りを渡された。

「最優先だ」
「誰のや」
「美月(よしづき)」
「まだお昼やで、無茶言いなさんな。来てへんやろ、つうかオレ見てないし」
「寝さぼってるだけで夜から詰めてるよ」
「おーコワ。そりゃやっぱ、ボスが直々に行ったほうがエエと思う」
「俺の機嫌を察してくれるかな」

 黙々と働く秘書のみが在席する部屋に肩を竦められ、省吾は咄嗟に敬礼。

「不肖里見省吾ッ美月サンにハンコもらいに行って参ります!」
「ああ。起きねえなら、明彦が来たとでも言ってやれ」
「で、ドコにいてるんや?」

 しかし遼は無言で手を振るばかり。呼出しに応じなかった時点で、再三の無駄を省いた様子。
 出勤早々預けられた難儀さに、大袈裟な溜息ひとつの意思表示を残すと、省吾はさっさと部屋を辞した。
 離れと母屋の境界線でもある架け橋まで戻り、さて何処を探そうかと見回した頭上、遼の声が響き渡った。あの報告書類に不備はなかったらしい。判事寮という補佐部局への顔出しを命じられたのは、有象無象の事変調査を担うサポート部隊の面々だった。
 と、その中によく知った名前を聞き、最初の捜索場所を決定する。出かける前に捕まえなければと歩き出し、省吾は、書類綴りだけを手にしていることに気がついた。

「カバンあらへんがな」

 首を捻って数秒。所有者の知れる落し物だ、いずれ誰かが届けてくれるはずと、判事寮のある南棟へと足早に向かった。  







【朔】 通常業務 「里見省吾」
20070502

image by 七ツ森

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