通常業務 「夏越梓穂」
3個目のプチケーキに手を伸ばせば、紅茶のおかわりを勧められた。
喜んでティカップを渡そうした手元で携帯電話が鳴り出した。
いつもどこかで流れている女性ボーカルの着信音。メールの報せ。しかも学校の友達から。
けれど今待っていたのはそのメロディではなく、低音きついロックだったから。正直に返信を後回しにすれば、もう一度鳴らせばいいと言われてしまった。
「二回以上鳴らすなって言われてんのよね」
「緊急事態は別でしょ」
「かもしれないけどさー」
テーブルの片隅で揺れるリボン。未開封の箱の中味はアップルパイ。わざわざ遠回りして買い求めたというのに、渡すべき相手の所在は30分経った今になっても知れないままだった。
「アップルパイ買って来たって言うの、くやしいじゃん」
少女はフォークで串刺しにした真っ赤なイチゴを振りかざす。学校が春休みに突入しているこの日、夕方の入り予定になっている彼女が昼食前に現れた意味はひとつしかなくて。
「仕事と偽って呼び出すより罪はないわ」
「だからヤなの。つか、何であんなにガードかったいんだろなーもう。全然論外って感じ」
「梓穂ちゃんにはかなり優しいじゃない」
「兄貴サマサマでしょ、どーせ」
「それ以上にちゃんと気を遣ってくれているわよ」
「仕事中だけね。また足折ったら面倒だとか思ってんのよ、きっと」
上手くいかない現状の嘆きはケーキの消化を加速させ、ハーブティの香りは慰めにならないらしい。
弄くり回しても鳴らない携帯電話。春爛漫の昼下がり、微かに漂うパイの香ばしさ。
優雅なティタイムを楽しむはずの『薬室』(やくしつ)の木戸が控え目にノックされたのは、満たしつつある溜め息のせいだったのかもしれない。
「どうぞ、」
と主の許可にそろそろと顔覗かせたのは20歳半ばの青年だった。
「すんません篁(たかむら)首座、お茶の時間に」
「構わないわよ。どんな御用かしら」
「これ預かっててもらえませんか」
と差し出された革鞄に、在室の女性二人して怪訝な顔。だがそれが、在阪球団の虎柄シールが大貼りされた学生鞄と知ると、少女・夏越梓穂(なごししほ)は席を立った。
「省吾って今日、温情テストじゃん。潔く進学放棄したかな」
「無事に終わったと言っておあげなさいよ。少し前に来ていたみたいね、」
ノートパソコンのキィを弾き、確認した出勤状況。鞄の持ち主の欄には20分ほど前の時刻で「入」と記してあった。
「カバン捨てってたところが哀れっぽい」
「判事寮で捕まってたんだよ。渡理次長いなくて右往左往」
「で、執務室? どんくさいやつ。遼さん機嫌悪いのに」
「だからだろ。----じゃあそれ、頼んだよ」
「はーい、預かっときます」
愛想良く送り出してすぐ、歪に膨らむ鞄を逆さにした梓穂は、毛足長い絨毯へ転がり出た品々に満面の笑み。
「形だけでもって気ゼロよね、アイツ。筆記具くらい持ってけばいいのに」
「大丈夫よ。周矢くんでもちゃんと高等部へ上がったんだもの」
「それってほぼサッカー特待でしょ。省吾の希望は一般入試激戦区の普通科よ、工業のが合ってるくせに」
黄と黒のストライプボディに改造された携帯ゲーム機の電源を入れると、ロゴマークが出るはずの画面は虎マークにすり替わっていて、流れる音楽は調子外れな応援歌。
パチンッとスイッチ入って響いた館内放送など、小型スピーカーのがなる熱唱にかき消されてしまいそうだった。
「----以上四名は判事寮にて詳細を確認、現場に向え。現地指揮は藤原、補佐を夏越とする。確保状況により実行可能なら処理して構わん。繰り返す、」
「あれ。あたし入ってる……?」
と、美音のテノールに聞き耳立てた梓穂。おかしいわね、と篁綾子が再びパソコンの画面に眼をやった時はもう、紅茶の残りを飲み干してしまっていた。
「やっぱバレてるわ」
「もうっリョウちゃんったら。気が利かないんだから」
「いいって、」
卓上の内線システムに手を伸ばす茶飲み仲間な幹部を押し止め、
「春休みっていつも暇だもん。乱さんの直参は却下されちゃったから、調査同行願を出してみたわけ」
「そう……由美の同行なら不安はないわ。でも梓穂ちゃん、だからと無茶は駄目よ」
「わかってます」
携帯電話を引っ掴み、行ってきますと身を翻した戸口。思い出したように顧みたのは、結局手付かずなままのアップルパイ。叶うなら温かいうちに食べて欲しかった思いも、今となっては迷いなく言い切る理由。
「戻るまで隠しといて」
「了解しました」
艶な微笑みに送られ、梓穂は判事寮へと駆け出した。
【朔】 通常業務 「夏越梓穂」
20070506
image by 七ツ森