【朔】
甘い午後

    3



 汗拭う周矢の背後で、梓穂は必死で笑う膝を押さえていた。人並み以上に体力はあると信じていたのに。座り込んでしまえば立てなくなってしまう。

「くそっどうなってんだ。繋がらねぇ……」

 手にした携帯電話へ、周矢の荒い言葉は珍しい。

 外と遮断された護界の内。
 逃げ口はもとより、補給路さえ閉ざされた鬼族にとっては最悪の、陽極エネルギーの満ちる場所である。
 なれば絶対優位は燮者方、のはずだった。
 しかし現実は無情。呪符で縛ろうとするタイミングを幾度も躱され、避け切れない質量で放たれる鬼力を渾身の燮和力で叩き落とすだけの逃走劇。
 囚われているはずの側に追い込まれ、充たない二人の万策は尽きていた。

 閉じるとは、こういうことだったのだ。
 なかなか連絡を、実行指示を寄越さなかった、あの従兄。最初から判っていたのだろう。この限定空間に閉じ込めた鬼族は梓穂達の手に余る、と。それでいて開ける努力に費やしてくれたはずの時間は、実の兄の、多分にして非情な言葉で無と化したか。己の敷いた力が留める影響を盾にして。

「ここさ、今……、アイツの支配領域なんじゃないのかな」

 穏やかに冷徹を告げかねない才能が憎らしい。与えられた呪符は、底の見えた梓穂の体力とは無関係に、いまだ鮮やかに息づいている。

「----突破しよう」

 周矢の低い声に、梓穂は無言で頷くしかなかった。
 これ以上逃げ惑っていても、その時はやってくる。ならば無事に振り切って相応しい燮和力を求める方が、遥かにマシだった。一矢すら報いる事が出来ぬまま。
 自分達が「ボス」と慕う若者ならば、きっと。策を用意してくれていると信じて。
 静かに身を潜めて気配を殺すことは出来ても、悟られずに移動する術が二人にはない。柱の影から走り出して間もなく、背後に強烈な鬼力が湧いて出た。

「おっかけて来ないでよ……っ!」

 思わずそう漏らしてしまった、苛立ち。背中を支えてくれる周矢の、鍛えられた足に、梓穂は最早ついていけなかったのだ。
 足裏が滑ったと自覚した瞬間、周矢の腕を振り払い、追い縋る脅威へ呪符を投げつける。だが、闇雲な一打もまた躱され、余力も何もなく派手に倒れ込んだ梓穂は、飛びかかってきた鬼族の、歓喜の表情をただ眺めているしかなかった。

「梓穂ちゃん!」

 叫びに放たれた懸命な燮和力が及んでいたなら、もう少しまともな勝負ができていた。補佐役の自分がもっと自由に封力を扱えていれば----

 無意識に腕を上げて庇った視界を、真っ白な光が灼いた。
 けたたましい苦鳴に耳朶が震え、梓穂はその恐怖に目を見開き、愕然とした。
 ふわふわと、白く小さなものが視界の中を漂っていたのだ。羽生えたものが。頬撫でるその気配はとてもよく知った秀逸で。
 一体、何が起きたのか。
 数メートルも離れた場所に転がるのは、苦痛、と判る音のない咆哮を放つ鬼族。崩れていく姿。

「まさか、それ……識神(しきがみ)か?」

 周矢の声にはっとなった。
 投げ打ったはずの呪符は消え、梓穂の周りを飛び交うは、仄かな紅色の短いクチバシを持った小きもの。
 それは、手のひと包みで足りる小鳥の形をしていた。羽ばたかない翼を広げて宙を漂い、呪符に組まれていたと同じ封力を感じさせる。

 呪符は元々開放時の動作を想定して作られている。身を守る為、戦闘を有利に運ぶ為に。意図する用途の数だけ呪符の種類は存在する。
 しかし今、梓穂の呪符にとって変わっているのは、単純作業だからこそ比較的扱い易いシロモノではありえなかった。
 識神(しきがみ)----ただひとつで複雑な使用をこなすからこそ、動く呪符、とも言われる自律型エネルギー構成体。

 気がつかなかった。
 扱い手であるはずの梓穂の限界と、まるで無関係に発動を続けていた理由そのもの。
 信じ難く眺めれば、判ったように梓穂の頭に舞い降りてくる。途端に身体が軽くなった。意識をしていなかっただけで、鬼族の支配域に取り込まれた影響があったらしい。
 そして血の気が引いた。
 呪符に代わった救い手と力の同調ができないのだ。
 すぐ足先には、半ば身崩れても消滅へ至らない脅威。後退りを堪えても、漏れてしまった苛立ちに、反応した。

「ばか兄貴ッ……!」

 真っ向から放たれた強烈な衝撃。
 へたり込む床へ叩き付けた梓穂の手は、渾身の封力を送り出す。その一瞬早くには周矢の燮力が投げられている。
 だが、底つこうとする体力に出せる威力などありはしない。まして二人の力は最初から通じはしないのだ。
 一方的に弾かれ、喰われた。
 グンッと膨らむ鬼力と、引き寄せられるように飛び込んでいく識神。

「行くぞ!」

 ぶつかり合った力の衝撃に突き飛ばされそうになった背を、周矢の腕に抱えられた。もつれる足で蹴る床は、雪のように酷く頼りない。
 今この時を逃せない決死が、最良の選択なのかは判らない。それでも走った。
 構う余裕のない背後は、その為に出たのだろう識神が守ってくれると信じた。
 脱出口となる外界との接点まで、何があろうと走り切るつもりだった。
 一心不乱に前方へ。
 残った集中力の全てを。

 ソレが勘に触れたのは、視界で捉えるよりもわずかに早く。

「止まって! 壁がある!!」

 “場”や鬼族、時に燮者自身の余剰エネルギーが作り出すその障害物は、勢いのままに打ち当たってすら人型の痕跡を薄く広がるだけで微動だにしない。
 相手鬼族は、護界の中で自在に動き、明確な人型有するレベルだった。その支配する特異領域となれば、いずれ何処かに、あるいはもう既に築かれていて当然の、危惧。
 周矢の携帯電話が繋がらなくなり、覚悟はしていたのだが。

「まんまと追い込まれてたってわけかよ」
「どっかに抜け道ないの!?」
「無茶すんなって。壊せるレベルじゃないぞ」
「判ってるけど……」
「外と連絡取れる方法探した方が早いだろ」
「いつまでもつか保障できないんだってば!」

 喚くしかない悔しさを指差せば、ややもすれば楽天的だった周矢の表情が険しくなってきた。
 識神の基礎は封力。梓穂ではなく、呪符を寄越してきた兄の。
 でなければ鬼族を止めてはいられないだろう。無限の手足たる鬼力の一片すら零さずに。
 それは同時に、中てた封力では鬼族を燮和できないことを意味していた。
 如何に識神を潜ませていた許容でも、呪符には今、支え手となる力は届かない。ましてや梓穂に合わせて作られたものに、相応以上のエネルギーがあるはずもないのだ。

「なら、やっぱりチャンスは今しかねぇな」
「どうするの?」
「ぶち破る」
「無理だって、そっちが言ったばっかじゃん」
「確保されてんなら、俺達でも出られる可能性なくはねぇよ」

 と、触れるか否かの距離で、軽く握った周矢の拳が壁を撫でる。横顔は真剣。

「……殴るつもりなわけ?」
「しょうがねぇだろ。美月さんじゃあるまいし。利剣で一発斬れりゃ楽なんだけど……なッ!」
「ちょ、……!?」

 腕を引くなりのことだった。部活で鍛えられた体重と、質良い燮和力の乗った一撃。
 今の苦境の象徴はしかし、そんな気迫をすら容易に跳ね返す。
 もう一度、更にもう一発。大きく息を吸い込んだ後、周矢の選んだ手段は、足、だった。

「蹴りは駄目だって!!」

 一年時からサッカー部のエースとしてならす右足の振りは、あまりに素早く、強く、壁を打ち据えた。
 梓穂がその竦む程の打撃音に蒼白となれば、勢いによろめく周矢は大きな舌打ちを放つ。
 見えている向こう側なのに。堅牢は非情。どうあっても辿り着けないらしい。

「周矢さんっ、あっ……足は!?」
「ま、これくらいは何とか。しっかしマジで硬ぇぞ、これ」

 と、苦笑しながら押し付けられた大きな拳。
 ささやかな、期待にもならない反発が生じ、

 振動した。








【朔】 甘い午後
20081013

image by 七ツ森

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