【朔】
甘い午後

    2



 避難口誘導灯の緑と、窓ガラス越しの夜間照明。そして古ぼけた懐中電灯だけが、恐怖を和らげる光の全て。
 何て頼りないのだろう。
 離れていかないようにと握り締めた、逞しい腕もまた然り。引けた腰の分だけ、二人の間に隙間はできる。幾度か怖さをアピールがてらに先行者を引き戻しても、すぐにまた歩調は元の速さに戻ってしまう。

「……歩くの早いってば。周矢さん」

 静まり返った廊下に反響する自分の声。梓穂が思わず身を竦めれば、都築周矢は足を止め、

「廊下の電気くらい付けてもらおうか?」
「……外から見えちゃうじゃん」
「それよか、仕事になんない方がヤバいと思うぜ」

 半ば呆れた気遣いに少しぐらついたものの、梓穂は毅然と、小さく首を振った。

 部活動真っ只中の京翔学院高等部に、帰宅を促す一斉放送が流されたのが数時間前。行政による衛生清掃というその場凌ぎの名目を疑う生徒は一人もおらず、事前連絡のなかった唐突さを訝しむ教員事務員でさえ、一時間後には問答無用で全員退去させられてしまったのだ。
 所属のサッカー部で汗を流していた体育科の周矢にしても、その放送を鵜呑みにし、チームメイトと校舎を出ようとしたところで携帯電話に入っていたメールに気がついたとの事。あのまま敷地を踏み出ていれば、一人で夜の校舎を彷徨い歩くはめになっていたと、決行指示を待つ間に知らされた梓穂は、とっぷりと陽が暮れてもまだ来ない決行指示に、いよいよ泣きを見そうになっていた。
 周矢は、腹が減ったと、そればかりを気にかけて、背後の窓の外----闇に聳える異様に真っ暗な校舎で、これから行われようとする難儀に裂く思考はなし。
 それでも文句も苦情も言えず、ただ喋り通しで気持ちをたもっていた梓穂の携帯電話が鳴ったのは、午後八時を随分と過ぎた頃だった。

「待たせて悪かったね。明が捕まらなくてな、その護界は閉じたままやってもらうことになった」

 開口一番、何故か雑音まじりの回線の向こうで、礼斎遼は、梓穂の怖気をそう盛り立て、

「指標すら読めない状況では、此方で鬼族を捕捉できない。すまないけど梓穂ちゃん、自力で探し出してくれないか」
「無理無理。本気で真っ暗だもん!」
「確保だけでも済ませてくれると有難いんだが」
「マジ怖いんだって」
「御免な。浄化地へ一度定着した鬼族を外へは出せない、燮和力への極性を強めさせてしまうだけだ」
「……大丈夫なの?」
「頑張れ」

 と優しく告げた遼は、残りの指示を本来のリーダーである周矢に伝えて連絡を終わらせてしまった。返された携帯電話を自分自身への慨嘆としてポケットに押し込め、梓穂は、借り出した懐中電灯を引っ掴むと、意気揚々と校舎へ向かう周矢を追いかけた。
 それから三十分。ゴム底の上履きが立てる音ですら響く静けさに、集中力は減退の一途。二人は、否、梓穂はそれ故にいまだ追うモノの気配の、その尻尾すら捉えられないでいた。
 実はとうに逃げ出しているか、探索場所の見当を違えているのではないか。
 最後に鬼族を目撃した校舎間の渡り廊下を起点に、まずは普通科第二校舎を見て回ろうと提案したのは、今件の初手である梓穂自身。放課後のあの時、取り逃がしてしまったその行き先が、第二校舎だと感じられたからである。根拠はひとつ、流れた気配の方向。

「見落としちゃったかな……」

 闇が先細りして見える廊下に目を凝らす。視覚よりも、感覚。いつもなら、こんな時に信用するのは進行形で開拓中の生来の能力だ。確実とはまだ胸を張れなくても、現実と大きく食い違ったイメージをもたらすこともない。
 それでも目に映るものに頼ってしまうのは、抱かざるを得ない不安のせいだった。

「ねぇだろ、それは」
「何か感じたの?」
「いや、全然」

 梓穂に比べれば格段と知覚に劣る断言にこそ、根拠は無いはずなのに。日に焼けた顔は、頭ひとつ低い心細さへ、

「ゴカイだっけ? それが閉じたせいだろうな、今にして思えば感じてんだよ、鬼力」
「……閉じた瞬間判ったってこと?」
「耳の奥が張る感じ。梓穂ちゃんが結界符使う時と似てたな。今この学校全体、結界の中みたいなもんだろ」

 だったら俺にも観える、と。
 それでいて校舎を出ようとした危機感の無さと、次はこっちかと恐れ気も無く歩き出す頼り甲斐の、妙。
 顧みた背後にひとつ頷き、梓穂は、周矢を呼び止めた。

「ここって結界なのよね、兄貴の」
「お。作戦でた?」
「護符(ごふ)と呪符で便乗できるかも」

 梓穂はその場に腰下ろし、膝近へ呪符を広げた。墨付きも鮮やかな表面に手を乗せ、

「これで拾えると思うの。力のかけ算よ。上手くいくかわかんないけど----炙り出してやるんだから」

 眼を閉じた。
 送り込んだ燮力はすんなり新しい呪符へ馴染んでいく。実戦ではまだ一度しか使っていないのに。慣れたこの感覚は一年をかけてこなしてきた、自作の呪符と同じ、否、それ以上。
 胸の奥へ滲むものを、今は、燮力を広げていくイメージに置き換える。
 より遠く、隅々へ。
 閉ざされた空間を埋めようとする燮力の負担は予想以上に少なく、流し込む量を一気に増やす。
 と、掌の下で呪符が身じろいだ、気がした。
 息を詰め、意識を寄せ、返ってくるものを選別するに要した時間は、短くて済んだ。
 傍にあった気配が引き締まり、梓穂は顔を上げた。

「やったぁ! 上にいるいる!」
「よしっ、行くぞ!」
「あっ、ちょっと待ってよぉ!」

 稼働中の呪符を慎重に引っ掴み、足の速い少年に付いていくのは案外な難儀と化して。まっしぐらな周矢に追いつけたのは二階から三階への、階段の踊り場だった。
 上がりそうな息を無理に吐き出し、梓穂は、周矢が足を止めた原因へ、やっと姿を現した捜索対象へ----昼間に見たあの模糊とした不定形ではなく、今や明確な姿を曝け出している鬼族へと、呪符を投げ打った。
 だが、短い手足をばたつかせるコミカルさに、あっさりと躱される。
 如何に結界という特殊空間であろうと、指の先まではっきりと認識できる相手のエネルギー総量は、それだけ蓄えられた証。膝丈もない小さな塊は、つまりは梓穂を凌ぐ存在なのだ。
 呪符が空振った瞬間、すかさず飛ばされた周矢の燮和力も無駄に階段を欠けさせてしまうだけ。
 そして鬼族は、速いだけではなかった。
 周矢の燮和力を躱したついでに三階まで一気に流れ、食い下がろうと一段上った梓穂達に強烈な一撃を送りつけてきた。
 咄嗟に反応したのは、梓穂でも、周矢でもない。足下にあった呪符が防御壁となってくれなければ、二人揃ってまともに喰らっていたはず。まして梓穂は衝撃に弾かれて足を踏み外し、周矢の出足を遅らせた。
 辛うじて悲鳴を飲み、腕を引き戻してくれた周矢へ、

「追いかけよっ、指標ひっかけてやったから!」

 そのつもりで投げ打ったわけでもない呪符の思わぬ効果を告げ、梓穂は階段を駆け上がった。
 第一校舎の三階。相変わらず廊下は暗い。しかし梓穂にははっきりと、その居所が見えていた。わずかに擦ったらしい呪符の、封力の欠片として。
 周矢もまたしかと鬼族を追い、その結果、二人は散々な目に合わされる羽目になったのである。
 極性の封力が付着した事で身の自由が効かなくなったと知った鬼族は、それを仕掛けた者達を全力で排除しにかかったのだ。防戦ならまだしも、逃走を余儀なくされた梓穂と周矢。燮和力で応戦しようにも、相手がそれを上回る存在である以上、燮和力は喰われ、ただただ糧となる。
 二度ほどぶち当てた燮和力を簡単に吸収されると、周矢は一転、逃げるぞ、と梓穂の腕を引っぱった。








【朔】 甘い午後
20080924

image by 七ツ森

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