【朔】
甘い午後

    1



 家庭方針らしきものにより、部活動への不参加を余儀なくされている。
 中等部の頃は、楽しそうにスポーツに勤しむ古馴染みの少年の存在もあり、「部活だから」の断り文句を一度は言ってみたいと、憧れたものだ。入れるのなら、入れてくれるのなら、運動部でなくても、文化部でも、本当にどこでも良かった。それくらいに羨んだ、中学生らしい、或いは、高校生らしい、学校生活。今はもうすっかり諦めがついた。
 その代わりに、放課後ちょっとの時間。人気少なくなった校舎に、複数ある専用グラウンドに、校内所狭しと充満するその雰囲気を堪能したくて、帰り支度を遅らせて一人居座ってみたりするのだ。
 学校という固定の枠で動く日常である以上は、密かな楽しみに使える時間は少ない。長く残ればその分だけ、後の行動がズレてくる。誤魔化しの利かないスケジュール。
 腰を上げる指針は、はいはいと引き受けてしまったらしい委員の雑用を終えた少年が、ほな行こか、と戻って来る時分。
 パタパタと、煩い上履きの音が近付いて来れば、梓穂は溜め息と一緒に鞄を手に取らなければいけなくて。
 今日もまた、開け放しのドアから、ひょっこり現れた赤毛の少年。梓穂を手招き、

「こっちへおいで梓穂サンや」
「……何よ、気持ち悪い」
「ええから来てくれや」

 と里見省吾は不可解な表情。釣られて眉を顰めはしたものの、素直に寄って行ったのは、予感などではありはしなかった。
 何よと訊けば、あっち、と廊下を指差す奇妙。それは梓穂の在するG組から、省吾のA組へ、つまり生徒昇降口に向かう方向。

「……何」

 暮色の滲む無人の廊下。さすがに気持ち悪くて足が進まない。なのに省吾は、

「オレのが危ない気がする」
「あたしを盾にしようっての」
「こればっかりは堪忍な。教室なんや、鞄」
「別にいいじゃん。教科書持って帰るわけじゃないんだし」
「ゲーム入ってるんやて」
「遠回りしなさい」
「お。それもそうやな」

 名案にさっそく引き返そうとする省吾。だが、そうはいかないのが梓穂だ。曲がりなりにも、使える燮和力を知っているのだ。

「行くわよ」
「ステキ、梓穂」
「省吾っ」
「……ぶっ倒れたら運んでくれるんやろうな」
「周矢さんにメールしたげる」

 威勢良く踏み出しはしても、不安がふつふつ湧いてくる。省吾は零に近いその感覚に何を捉えたのだろう。
 F組の教室前は難なくクリア。続いて、E、Dも。Cの半分を越えた辺りで、ピリッと首筋が張った。
 但し、極わずかなもの。少ない痛みは異常の度合い。
 そのことに勇気付けられ、覗いた教室は持ち主の帰りを待つ鞄あれども、生徒の姿無し。そして異変は、中央列席のやや後方に漂っていた。

「はい、ビンゴ」
「オレの鼻も捨てたもんやないな。で、どこ?」
「気分悪くなっても知らないから」

 乗り出す頭を押し返し、梓穂はゆっくりと教室に足を踏み入れた。端から見ればさぞや可笑しな光景だろう、悪事働かんとする忍び足に、周囲を警戒する少年。
 程なくその異変----ゆらゆらふわふわ、消えては現れてを繰り返す、ライトに照らし出されるスモークのような正体を、察知した。

「何でこんなトコに“流れ”があるわけよ」
「おっと。直撃されたら、オレは死んでまう。そりゃどっから来てるんや」
「どこって……ここ?」

 困惑に示した傍らの机。まだ鞄のある席だが、梓穂にはどうも、何らかの原因でそこに凝った異様が、結局は形を作れずに零れているようにしか見ないのだ。その証拠に、燮和力を縁った手で触れただけで、実に呆気なく還ってしまったのだ。

「おもろいやっちゃな。鬼族がその席に座ってたんかいな」
「----案外そうかも」
「ええ!? マジですかいな。オレは冗談を、」
「“器”の可能性もあるじゃん」
「あるじゃんてお前……」
「ねぇ省吾」

 と振り返った童顔の真面目さに、梓穂は自身への頷きをひとつ大きく入れ、

「あたし今ミスっちゃったかも」
「オレにはよう判らん」
「だってこれ本流じゃ……、うっわマジでヤバい!」

 と机に飛びついたのは動揺から。拍子で落としてしまった鞄は中味をぶちまけ、足先に触れ、更に驚き飛び上がり、証拠隠滅に拾い上げたのはピンクとフェイクファーとラインストーン満載で、女子生徒だと判る持ち物だった。電源入った携帯電話すら置いたまま。指先に触れた安物の石の感触に何気なく裏返し、縁取られたプリクラに目が釘付けになった。

「うそ……」
「どないした! おい梓穂?」

 懸命にも教室に入ってこない省吾はもどかしそうに声低め、梓穂は呆然と、その名を口にした。

「杏子ちゃん……」
「きっこえませーん」
「これっこの席っ! 杏子ちゃんだって言ってんの!」
「……なんでや。何かそのチョウコウあったんか」
「あたし最悪だ」

 手にした携帯電話は、歪なほどに飾り立てられていて。握り締めた掌が痛む。走り出したい衝動はそこへ全部押し込める。

「携帯置いて行った? 自分で? 持ってく時間なかった?……昨日あの時はちゃんと鞄持ってた。来たってことよね、今日は。じゃあ今何処にいるの……考えろあたし」

 昨日と、今と。勘違いだと判断してしまったくらい、現象は不明確。その源が梓穂を上回る力を持った何かなら、目晦ましをされている可能性も否定できない。
 だが、感じるのだ。携帯電話に色濃く残る気配と同じものを。
 淡く、微かに。頭の片隅で。
 迷っていても仕様が無かった。疑い出せばきりのない自分自身の封力。
 今の最善は走り出すことだ。

「しっ……梓穂ぉ!? ドコ行くねんな!」
「保健室!」

 駆ける背中に当たった戸惑いに、梓穂は確信持ってそう応じていた。
 廊下を一気に逆戻る。階段を下って角曲がり、普通科第二校舎庭へ通じる渡り廊下へ飛び出した。
 夕暮れの光通すステンドグラスは煌びやか。広い廊下を隅々まで照らし出す。

「杏子ちゃん!」

 第二校舎と廊下の間口に二人。壁に寄りかかってしゃがみ込む少女の、肩を抱える女子生徒。
 恥じらいも無い梓穂の叫びに驚きの顔を上げたのは、よく見知った相手だった。

「びっ……くりした! いきなりデカい声かけないでよ梓穂!」
「美香! 杏子ちゃんどうしたの!?」

 傍らに滑り込んでくる勢いに怯み、だが美香は、杏子の背を撫でる手を止めなかった。

「わっかんない。ここまで来たら急にさ、気持ち悪いとか言い出しちゃって。----ね、杏子。やっぱまだ寝てたほうがいいって。保健室戻ろ」
「……でたい」
「え?」
「学校出たい……」

 小さく震える声に、さしもの美香の顔から表情が失せ、梓穂は強張る身体に手を伸ばした。

「判った、帰ろう!」

 忘れていたわけではない。
 今はもうはっきりと見て取れる、杏子を包む薄暗い靄の存在を。
 それが最善の、今の杏子の一番の望みならばと、ただそれを思っただけだった。

 痛みにも似た拒絶を指先に受けた時、杏子だけでなく、美香を、梓穂を、押し包まんばかりに膨らんだ陰気の塊----“流れ”となり“場”を作り、やがて自律体へと成長する妖のエネルギーは、もう既に条件反射の腕を掻い潜る高等さを備えていた。
 ステンドグラスが細かく軋み、足元がわずかに揺れる。急速なエネルギー移動に付属する空気密度の変動は、美香や杏子を脅えさせ、視線ばかりは何とか追い縋った梓穂を、また叫ばせた。

「来ちゃダメだってば!」

 むしろふんわりと垂れ下がった薄幕の向こう側には、棒立ちの省吾。
 形成さない幼生のエネルギーが、燮和力に触れただけで、ああも簡単に少女から剥離した理由はひとつだけ。
 ポケットから引っ張り出したモノを思い切り、渾身の腕の振りで投げつける。
 しかし手段を選んでいられなかった未熟は、またも幼生を捕え損ねさせて。その裾へ呪符が到達する寸前、危機を察した知能にひらりとかわされ、姿を晦ます余裕さえも与えてしまったらしい。
 気配諸共に消えた天井を睨む暇もなく、

「杏子!?」

 咳き込みの激しさに慌てて身を翻した危惧。しかしそれだけはどうにか、小さな安堵と変わってくれた。
 身体を折って咽る杏子から、寄生の気配は拭ったように消えていたのだ。側に寄り、身に触れ、返ってくるのは生身の反応----その苦痛。半ば強制的に吐かせてしまった反動は、見えず触れえずの異物でなくても、相当に苦しいはず。
 美香と一緒に泣きそうになりながらも、できることを探り出した梓穂は、

「綾子さんに連絡して! 早く!」

 随分と昔に同じ叱咤を受けた時、目の前で蹲る痛みを怖がり、役に立たなかった幼さを覚えている。でも今は違う、辛さ身に染みているはずの相手だから。
 それなのに。

「省吾ってば!!」

 うんとも、判ったともない無言を殆ど怒声で振り返ったのは、自身の焦りを払う為でもあって。気負いの分、行動には出れなかった。

「ちょ……とぉ! アイツまで何なのよ!?」

 と裏返った声上げて走ったのは美香だった。
 当の省吾から返答はやはり無い。渡り廊下の反対側、大の字で倒れていては沈黙も致し方ないだろう。
 しかし何故?
 震えの引いてきた身体から離れないよう、梓穂は首だけを伸ばす。ステンドグラスの色鮮やかな照明に邪魔をされ、よく見えないのだが。力なく傾けられたその顔に、何か白いモノが張り付いてやしないだろうか。

「……やっぱ省吾ってさ、」

 気持ちよく伸びる省吾の傍らにしゃがみ込み、美香はそっと、ソレを引き剥がす。

「根っから面白いよね」
「今回はあたしのせいだわ、たぶん」
「あ、やっぱり。これ梓穂のなんだ」

 と美香の手に翻る細長い紙。否定も誤魔化しも面倒なくらい、それは確かに梓穂の呪符だった。

「杏子も、そうなわけ?」
「違うと思うけど。今まで、こんなことあった?」
「あったら言うってば。ね、オカルト少女」
「美香ぁ」

 恐れ気もなく、はいどうぞと、呪符を渡してくれる少女と知り合ったのは、省吾の特異体質がきっかけであった。
 対処にまだまだ慣れていなかった手際悪い梓穂を、クラスメートだからと居合わせただけの美香が当然のように助けてくれて。やがて病院を固辞しなければならない事情を話せば、さすがに驚きを隠しもしなかった反面、あっけらかんと受け入れてしまったのだ。
 もう大丈夫だからね、と。息遣いの落ち着きはじめた杏子を労わると、同じように。

「で。何か手伝う?」
「あ、うん。杏子ちゃんお願い。連絡しなくっちゃ」
「オッケー」

 その術を持たない以上、効果あるかどうかは判らない。それでも美香へ気休めの呪符を差し出して、梓穂は転がる身体へ駆け寄った。一瞥した寝顔は、額のみみず腫れを除けば暢気そのもの。思わぬ役立たずに少し躊躇い、ズボンのポケットから取り出した携帯電話。黄と黒で派手にデコレーションされた使い辛さに腹を立て、ようやく繋がった先は女性だった。

「お待たせしました。判事寮、杉本です」
「あっ、あの、梓穂です」
「ご苦労様。今、換わるわね」

 どう切り出そうかと迷う暇さえ、その保留音は与えてくれず、

「もっと早く連絡してこなきゃ駄目じゃんか」

 間延びして聞こえる男の声は、梓穂の焦燥を怒気へと昇華させた。

「サイテー志朗さん! 判ってたわけぇ!?」
「あったり前でしょうが。そこ何処だと思ってんのさ」
「学校!」
「じゃなくて。護符ね」
「ごふぅ?」
「そそ。ちゃんとした浄化地帯は、指標の一部」

 知らなかったのかと、苦笑はあからさま。既に対処へ乗り出したとも追い打ちをかけられ、孤軍奮闘の空しさにがっかりと梓穂は項垂れた。

「----でね、綾子もうじき着くから。聞いてる梓穂ちゃん?」
「なーんですか?」
「君等で始末してね」

 最高幹部のひとつ、補佐・立道志朗は少女の心中お構い無しである。拒絶同等の無言を返しても、勝手に手順を話し出す。

「到着次第、綾子がそっちに連絡する。被害者も居るみたいだから、それをまず引き渡して、周矢と合流後は待機してて。メールはしといたから。ああ、大丈夫だよ、京翔の理事長とは遼が話つけるし」

 じゃあ、と切ろうとする薄情に、梓穂は思い切り噛み付いた。納得いかない以前に、できるとは思えなかったのだ。幹部職の男が気楽に言うようには、残念ながら。

「どうみてもコレ上級預かりじゃん!」
「でも閉じちゃった。燮和師入れたら外界との接点になって、せっかく捕らえた鬼族逃がしちゃうでしょ」
「は?」
「緊急事態にはね、内容物を漏らさないよう、そういう護符は閉じるんだよ。擬似的な結界ね。あ、また後で決行指示送るね」

 ちなみに明彦の特製だから安心しなよ、と。連絡は笑いながら切れた。








【朔】 甘い午後
20080918

image by 七ツ森

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