【朔】
甘い午後

 チャイムと共に告げられる教員の挨拶何処吹く風。その姿が教室から去るよりも早く、生徒達は駆け出して行く。
 私立京翔学院高等部普通科一年G組。窓際最後尾の席では、そんな彼等を尻目に悠々とした少女が一人。
 午前最後の授業も完璧にまとめた。カラーペンを駆使して飾り立てたノートは、これだけで定期考査対策もばっちりの一品。ギリギリになって泣きついてくる友人は数知れず。

「意外にマジメだよね、そういうとこ」
「直前で慌てんのがヤなの。つか、英語貸さないからね」
「駅前のイケメンパティシエんとこでお茶一回」
「良いこと言うじゃん、たまには」

 素晴らしい交換条件を確約して机に仕舞った必勝ノート。変わりに引っ張り出した携帯電話には、メールの着信を示すランプが光っていた。
 着信時間は今し方。嫌な予感に確認した内容は、予想通り涙の顔文字とパンらしき絵文字。

「あたしのクリームパン、売り切れだって。マジさいあく」
「なに、また省吾パシらせてんの」
「調子良いこと言うんだもん。失敗した!」
「無理に決まってんじゃん、あの激戦。体育科も一緒になってんのに」
「本気でクリームパン食べたかったのにっ」
「梓穂さ、お昼どうすんの?」
「うぅ……余りもの買うわ。美香はお弁当?」
「外行こうよ、天気良いし」

 更に気の効いた提案にも賛同し、夏越梓穂はぶつくさ言いながらメールを打つ。それを覗き込み、中等科からの友人、矢崎美香はさらりと訂正をかけてきた。

「まてまて。誘ってあげなよ、せっかくなんだし」
「何が、せっかくよ。学校でまで一緒に御飯食べる気しないもん」
「ジュースくらい持ってきてくれるって」
「要らなーい」
「幼馴染みは大切に」

 と送信しようとした指を払われた挙句、問答無用で消去された苦情メール。睨む梓穂に、ランチボックスを持って素早く席を離れた美香は、いいから誘え、と言い残す。
 ことコレに関して彼女は甚だしい勘違いを継続中で、梓穂はその笑顔に思わず叫んでしまうのだ。

「違うって言ってんでしょ! あたしはねっ」
「ヨシヅキさんだっけ、銀髪のあのカッコイイ人。全く相手してもらえてないくせに。写メも隠し撮りでさ」
「うっさいなー! 写真撮ったらすっごい怒んだもん、しょうがないじゃん。いつか絶対オとしてやるんだから」
「わーたのしみぃ」
「くっそぉ腹立つな」
「省吾にしときなよ」
「それは無い。絶対、無い」
「この女アクマだわ」

 普通科と工業科、そして何故か体育科まで一緒になってしまう合同の学生食堂へと、必死の形相で走る生徒の群れは消え、廊下を歩くのは余り物組か、弁当持参の生徒だけ。
 昼休みが始まってもう十分が経った。今頃は、特別進学科まで加えた生徒によって食堂だけでなく、四棟の校舎にそれぞれ設けられた中庭も、開放された教室も、適当な場所の全ては占拠されてしまっているはず。ゆっくりと食事ができるのは、あとは各自の教室か----校外。正門裏門鎖されているのは先刻承知の校則違反とはいえ、梓穂と美香、二人と同じ方向へ、そ知らぬ顔で歩いて行く生徒はちらほらと居る。
 その誰もが少なからず見た顔で、如何に初等部から大学院まで備えたマンモス私立といえども、こちらの常連となればさして多くはない。
 中等部と高等部を隔てる自転車置き場の奥、生垣で囲われた一角の前で、ジュース運搬係を待つ梓穂達に、先輩連中は指で作った小さな丸を見せていく。安全に通り抜けられるその合図に笑顔を返し、

「つか遅い」
「もみくちゃにされてんじゃないの」
「ドンくさ……」

 ならば先に場所取りでもという雰囲気に、待ったをするのは又しても美香。しかし今回は梓穂の幼馴染みの為ではなかった。自転車置き場の入り口へ、杏子、と目敏く歩き出し、

「あれ鞄。なに、帰んの?」
「一昨日から体調悪いのよねぇ」
「そーいや顔悪くない?」
「おおきなお世話っ」
「一人で帰れる? 送ってくよ」
「サボりの口実は嫌ですよーだ。そこまでお母さん来てくれるし、大丈夫」

 と同じ普通科のネクタイをする少女は笑顔だ。梓穂も幾度かおしゃべりをしたことのある、友人の友人。こちらに気付けば、小さく手を振ってきて。
 あれは……と漏らした己の言葉に、梓穂は振り返そうとした手を強張らせてしまった。

「冗談よしてよ……」

 思い切り目を瞑り、開く。
 何も無い。
 心地よい陽射しが自転車置き場の屋根に当たり、美香達の立ち位置はちょうど影。その錯覚かと眼を凝らせば、梓穂ぉ!とようやくの声。

「おっそい省吾! お昼終わっちゃうじゃん!」
「む、むちゃ……言いなさんな。戦争やで、戦争。飢えた野郎共の中をかいくぐり、ほれ見てみ、クリームパン手に入れたってんぞ」

 この陽気で既に生成色のベスト姿の里見省吾は、学生食堂の紙袋から誇らしげに、梓穂の大好きなパンを取り出して見せる。

「ね、あれ見て」
「お? お? なんや、」

 真面目な顔で視線を流した先には美香と、少女。青褪めてなくもなく顔色だが、美香も同じように見えてしまう日陰の中。
 けれどもしこれで、省吾に何らかの反応があれば、と思ったのだが。

「杏子ちゃんやんけ。早引けかいな、ええな」
「……やっぱね」

 案の定の答えに落胆は無い。切迫した極限状態でなければ異常を察しもしない素質の薄さを、梓穂とても十分に知っている。逆に言えば、そんな省吾がヤバイマズイと騒ぎ立てる事態は、梓穂では手に負えない証拠でもあって。
 良い徴候なのか、否か。
 この距離に、あの微妙。
 自身誇れる感知力を持っているにしても、判断のつきにくい、一瞬の影。何しろ人大勢集う場所には少なからず、ああいうものが、発生してしまうのだ。
 どうしようかと、首を捻った視界の端に、省吾の手元が飛び込んできて、

「あっクリームパン! どうしたのコレ」
「お前、オレの話全然聞いてへんのか、有り難味のうっすいやつやな。いいか、これはな、あのむさ苦しい群れに命がけで飛び込んでやな、」
「自分で売り切れってメールしてきたじゃん。誰にもらったのよ」
「……ちか兄です」
「さっすが周矢さん。よく会えたね」
「オレ行った時はとうにテーブル占拠して、飯食ってた」
「じゃあこれ、横取りしてきたわけ!?」
「んなことするかいな! ちか兄から御飯取り上げるなんて、恐ろしいこと、オレにはできん!」
「あ。クリームパン発見」

 と美香。いつの間に杏子と別れたのか、省吾が熱弁奮うクリームパンを、ひょいっと横取りする。

「おおぅ美香ちゃん。それは梓穂にやらんと、オレの株が下がってまうやないか」
「今更パンひとつ、餌付けにもなんないじゃん。やめときなって。この娘、マジでオニだわ」
「よーく知っとるで」
「ちょっと省吾、それどういう意味!?」
「はーい休戦休戦。先にお昼食べちゃおうよ」

 と生垣の奥を指す美香に、梓穂は仏頂面。投げ渡されたパンを紙袋に仕舞い込み、省吾はさっさと歩き出す。
 華奢なその後姿に頼り甲斐は皆無。本人に言えば大層傷つく童顔へ、まさに愛嬌たっぷりな笑みを浮かべる性格は、誰にでも変わらない好印象。とはいえ身近すぎる所為もあるのだろうけれど----好みでないのは事実なのだ。

「パン一個で、ほんっと今更って感じ」
「ブランドおねだりしないだけマシってやつ」
「興味ないもん」
「あんたん家が金持ちだからじゃん」
「あたしのお金じゃないけどね」

 そして、先食うで、と聞える慣れた方言に、梓穂はクリームパンの所有を宣言し、美香は飲み物の有無を問い質しつつ、駆け出した。


 良く晴れた空に風穏やかな、気持ちの良い時間のこと。
 梓穂が思い出すのは同じく快晴となる翌日である。








【朔】 甘い午後
20080912

image by 七ツ森

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