誰彼時
2
燮和力を自制で扱えない事実が、これほど重く、具体的な方法でのしかかってきた事はなかった。
死を意識した絶体絶命も。
女に----人にしか見えなかった、究極のこの悪意。脆弱な身体に相応しく、わずかもない燮和力を、狙ったものか。地下構内で接触した瘴気に増幅され、多分に美味そうに思えたのだろう。
「き、ゾ、く……め!」
喉輪を押さえる、むしろ華奢な腕に、省吾は必死で爪を立てていた。本日二度目の最後の気力は、絞り尽くした本当にラストの一滴。
成り損ないのエネルギーを最も好んで喰らうモノは、そんな死力を嘲笑するかのように、細い指に力を込める。省吾は、自分の咽喉がきゅうと閉まる音を、聞いた気がしてならなかった。
「その手を離してやってくれるかな」
ついに都合の良い幻聴まで聞こえ、いよいよ自分は危ないらしい。俗に聞くソウマトウが見れるのだろうか。
「あら、」
と、咽喉の圧迫が消えた。それは、支えを失って地に投げ出されたと同じこと。しかし軟体と化したかのように力失せた身体は、強かに転がされても痛みを感じる暇もない。ひりつく気道を一杯に開き、酸素を吸入する。排気混じりの空気がこれほど美味いとは思いもしなかった。
「イイオトコ」
「それはどうも」
涙目で転がる少年になど、最早獲物の価値も、興味も失せたのか。彼女は恐れることなく足を踏み出し、止まった。
それに、引き攣る瞼押し上げて省吾が認めたのは路地入り口の影。薄紫の美しい逆光で顔は判然としないのだが。
細い足が戦慄き、ゆっくりと後退すれば、人影は頷きを入れ、
「まだ大丈夫だな」
耳に心地良いテノールはどうやら幻でも、聞き違えでもないらしい。腹が立つその冷静沈着は覚え十分。
「ボ、……ボスぅぅぅぅ!」
「なっ、なに!? あんた……一体、なによ!!」
「逃がすな」
と、やにわな悲鳴にさえ憎らしくも余裕綽々。
脱兎と方向転換した足に飛びついたのは、しなやかな叱咤による咄嗟の反応。いかに力が強かろうとも、諸手で両足抱えてしまえば、踏み止まるのは至難の業。果たして勢いのまま降って来た身体、今度は押し潰される災難を覚悟した。
「よくやった」
「……へい、ありがとさんです」
激突寸前だった女の身体を支えていたのはスーツの腕。気障ったらしく片膝をつき、省吾に向けられていた嫌になるほど整った顔は、己が通う場所にて絶大な権力有した若者----礼斎遼に相違なし。
「もういいぞ。後は引き受ける」
立ち去れという意味なのはよく理解した。しかし省吾は曲がりなりにも『一条』の一員。なればこの場合は異常に遭遇した初手であり、原因を知る権利持った被害者だ。
「いらん、おる」
「気分のいい仕業じゃないぞ」
「大丈夫」
遼はそれ以上、省吾の体質を案じはしなかった。無事が確認できた以上、優先順位は腕の中----痙攣する女。
眉間にあてがっていた二本の指を外した途端、女はカッと目を見開いた。遼を慄然と射抜くそこに、省吾が見たのは、獣の光彩を備えた半透明な瞳。途端に思い出されたひとつの顔。ついと目を背けそうになった嫌悪を、咄嗟に腹の底へ押し込める。
しかし遼は、ガチガチと歯を鳴らす口許を指で塞ぐと、
「その専門ではないんでね。苦痛は我慢、な」
口腔に指を押し入れた。
省吾も思わず嘔吐いてしまった無茶に、女は当り前のように咽喉を鳴らし、一気に何かを吐き出した。
黒い塊だった。拳の大きさもない。
それが、ただの吐瀉物でないことは省吾ですら判る。心底の不愉快をかき立てられ、肌が泡立つ。
地下鉄車両の最前列で経験したよりも、酷く。その塊が有しているのは強く、明確な、嘘寒い力。女の有り様を一時的にしろ、悪しき存在へすり替えた原因。
さすがに足が勝手に下がっていく。大丈夫だと見え切った手前、また気持ちが悪くなってきたなどとは言いたくなかった。
「……ソレも鬼族なん?」
「成れの果てだ」
遼は、小刻みに震える女の背中を何度も何度も、音立てて叩いている。その度に女は黒い欠片を吐く。
「燮和力で絡み取ってしまえば、こうして引きずり出せる。有機体への浸食具合にも拠るがな」
「その人、ほんなら……人間?」
「何の為に、俺がこんな手間をかけてると思ってるんだ」
やっとこちらを見返った若者は、薄く、苦い笑みを浮かべていて----省吾は俯いた。
「な、なあボス、」
「お前の所為じゃない」
「でもオレさっき……」
「言いたくは無いが、お前にこの量を溜めるのは不可能だ」
女を片腕に抱えたまま、遼は、うねくりながらも着実に逃れようとしている塊に対し、軽く指を払った。その瞬間、倍に膨れていた塊に、ぺこんと凹みができて、一度きり大きく震えた後は消えていた。
あまりにも簡単だった。
不満が湧いてくるくらいに呆気無く、省吾は、十数分前に立っていた危地から救われてしまったのだ。
従兄弟の少年が見せる大袈裟な予備動作も、古馴染みの少女が行う執拗な準備も、必要がないレベル。
それが、省吾には観えもしなかった遼の燮和力。最上を謳われるが故に若くして組織を担う人間による、怪異の----鬼族の処理の方法。
自分ばかりが、どうして。
「おい、省吾」
ぐらつく視界に、思考が一緒になって揺れる。沁み入ってくる遼の声に、自分がふらついていることまでも知らされて。
「気分ワルイわ……」
「当てられた影響が抜けたわけじゃないだろうが。大人しくしてろ」
取られた腕を振り払ったつもりだったのに。大きな手の、やんわりとした力にへたり込んでしまう。
「直に、綾子が来る。篁(たかむら)最高の癒し手だ、その瘴気をしっかりと根から抜いてもらうんだな」
額に触れた手の温み。その指が嵌めたリングは意外に冷たく、少しばかり痛かった。
夕方午後五時。それが里見省吾の大体の「出勤時間」である。
たまにサボりもするし、平気で何時間も遅れることもある。
雑用係という立場をこなす為だけに。感謝されこそすれ、無ければ無いで立ち回って行く役割の為に。
飽きもせず、毎日。
----あっけらかんと笑いながら。
【朔】 誰彼時
20080903
Special Thanks!--Aちゃん
image by 七ツ森