誰彼時
時間を定められているわけじゃない。大抵が五時頃、学校が終わってから。
それが里見省吾の所謂「出勤時間」だった。
クラスメートにはアルバイトで通している、そのお手伝い。明確な役割を振られているのでもなければ、行かなければいけない、なんてことも、本当は無いのだけれど。
それこそ赤ん坊の頃から入り浸っていた場所の事、馴染みの人達。一端の体力腕力備わってからは雑用係として、良いように扱き使われてもまるで苦にならない。顔を出す、という行為自体が今はもう習慣になっている。
何が起ころうとも----
1
街路の景色がそろそろピンクに厭き始めた、ある夕方だった。
雨の日も風の日も通い慣れたとある駅の改札を、よろめきふらつき、やっとの思いで通り抜けた所で、省吾は力尽きた自分を悟ってしまった。
それでも働いた羞恥心が、帰宅ラッシュ直前の駅前広場で倒れる無様を避ける為の最後の気力を振り絞らせて。どうにか脇道のビルの隙間、人目につかない場所へ滑り込むことに成功した。
ぐるぐると好き勝手に回って歪む視界を閉ざし、もう一歩も動けないこの状態を、どうやり過ごすべきかに意識を集中させる。
上手くいかなかった。
ならばせめてと、じんわりと広がる酸いものと一緒に、気分の悪さを吐こうとしても、こみ上げるのは別のもの。
嫌でも自覚してしまうのだ、無能の自分を。
うっかり駆け込んだ地下鉄先頭車両。気がついた時には遅かった。音が聞えるくらいの勢いで引いた血の気、震える手足。滴る冷や汗。声を掛けられた気もするけれど、大丈夫じゃないと伝える暇さえ惜しかった。
「ぅぅぅ……キモチワルゥ」
アレルギー出るだけマシだろ、とは誰の台詞だっただろう。
それで一体何になるんだと喚いてしまいたい。側にある変異の予兆を知ったとて、対処出来る力無く、ただ拒絶反応起こすばかりで。饐えた匂いのする地面に鞄抱えて突っ伏して、吐くか、馴染むか、そのどちらかを待っているしかないのだから。
今ばかりは切実に思う。ほんの少しの力があれば。自由に揮える要素を持っていれば。
耐えるだけでなく、振り払えるのに。
恨めしいのはこの身体----流れる血。中途半端よりもまだ酷く、砂粒程度に受け継いだ燮和力の所為で、これまでに幾度、憑坐にもなれない憑かれ方を経験したことか。
脆弱なこの身に潜む、極々微量の燮和力を感じ取り、擦り寄ってくるのは発生してこの方、漂うだけが役目のエネルギーの欠片達。“何か”に成り上がる為に、そして“何か”に食われてしまわないよう、防衛本能にも似た意識の基で省吾の裡へと入ってくる。
結局は糧ともならず、燮和力の質が対極であるが故に消え失せてしまうとしても。未分、ただそれだけで、未細な力達は惹き寄せられるのだ。誘蛾灯に集うムシケラのように。
今日はまた長く影響が留まっている。余程に波長が合ったのだろう、地下の路線内に充満していた成り損ないの瘴気と。
「ね。ちょっと君、」
その声が届いた瞬間、ぱんっ、と背中の重みが弾けたように感じた。
「どうしたの? 大丈夫?」
省吾の傍らまで来ることを躊躇わなかった足音は、背に触れた温かいものでも同じ。
あまりに唐突で、手だと、その感覚を認識するまで少し時間がかかってしまった。
「だ……だいじょぶ、じゃ、ない……デス」
強がってどうにかなるなら、思い切って駅前広場で倒れている。その方が助けてもらえる可能性は高いのだから。
それでも、だからこそ、省吾の小さな小さな、燮和力ある者の自尊心が許さなかった。沢山の人を巻き込んでしまうかもしれない恐怖もあって。
「ひとりに、しといてください……」
「なにを言ってるの」
「……すぐ、治まるさかい。コレ」
「持病かなにか? じゃあ薬は? どこ?」
弱々しいこちらの要求など、聞く必要はないらしい。女の人だと理解した柔らかい気配が覆い被さってきた。
背中に、何か柔らかいものが触れ、あれ?と思った。先刻とどこか、何かが違う----気がする。
「あのぉ」
おねえさん、と続けることができなかった。
ドスンという効果音が目の裏に散った気さえした、その一瞬。我が身に起きであろう事に、理解が追いつかない。
無意識にばたつかせた足が地に触れない。凄まじい力で捻り上げられた身体は尚も上昇中。
肺の空気は最初の一打によって全て押し出され、苦し紛れに放った蹴りは、この無法に擦りもしなかった。
足りない酸素に薄れる意識。
それだけでも十分に厳しい状況だというのに。
霞む視界は、笑み崩れた女の目に光る残忍を捉え----急激に体温が下がっていく。
引いた血の気が耳奥で谺す。
掴まれて閉じた気道よりも、はっきりと。咽喉を抑えたその手に吸い取られていくものにこそ、危険を、命の瀬戸際を、自覚した。
どうして、本当に。
自分はこんな目に遭わなければいけないのだろう。
燮和力なんてこれっぽちしか、ありはしないのに。
【朔】 誰彼時
20080829
image by 七ツ森