【朔】
アメとムチ

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 ありったけの憎悪を込め、由美は、彫り深い秀貌を睨みつけていた。

「中華と言ったわよ、アタシは」
「だから、ここ」
「あんたね。忙しさのあまり頭どうかしちゃったんじゃないの」
「お陰さまで明晰さ。だから抜けて来ただろうが」

 真面目腐って煙草を吹かし、二人の座る場所を長い指で叩くは礼斎遼。シルバーのリングが、頭上の裸電球の照明にすら嫌みなほど煌めく。
 猛然と襲ってきた目眩を堪えて手をついたカウンターが軋む。二の句が継げないとは、まさに今を言うのだろう。
 その空隙へ、気の毒そうな声が割り込んだ。

「由美ちゃんの大盛りチャーシューな。おまけもしといたぜ」

 ごとりと、如何にも重そうに手元へ供された器には、麺が隠れるほどのチャーシューが盛られている。確かにいつも以上だ。

「ありがとう、オジさん」
「いいって。さあ食べてくれや」

 馴染みの店主はそっと、割り箸まで握らせてくれて。その優しさに涙が溢れてきたというのに。

「やっぱりビールもらおうかな」
「へい」
「あんたまた戻るんでしょ! 寄越しなさい!」

 焦げ跡も年期の木製カウンターへ届く前に、ガラスのコップと瓶ビールを奪い取り、由美は手酌で一気に煽る。よく冷えた苦みが咽喉を潤し、空っぽの胃に染みていく。

「おい、」
「ああ、美味しっ! 仕事の後の一杯は最高だわー!」

 ともう一杯。咽喉を鳴らして飲み干し、山盛りの特製チャーシュー麺にとりかかる。その頬に溜め息落ちてはきたが、黙って無心に頬張れば、やがて気にならなくなった。時間は既に午後の九時を回っている。美味そうに匂う湯気で刺激される限界に近い食欲を、抑えるいわれはないのである。

 判事寮からの仕事を全て無事に片付けて戻った“本家”にて、専任燮和師の由美を待っていたのは、一定の指揮権限有するが故の雑事だった。同じく専任長である美月乱が日常の末端業務に一切関わろうとしない分、彼の担当する二人の高校生燮者の所在確認から、判事寮が入手する事変の先別までを一手に捌くことになる。そんな多忙を飲まず食わずで頑張ったのも、昼前に約束された豪華なディナーがあったればこそ、だ。

「おかわり! 煮卵付けてね」
「はいよ」

 人懐っこい店主の作るラーメンは絶品で、由美は仕事帰りによくこの屋台に立ち寄っている。それでも約束が反故にされたという、絶対の事実は揺るがない。まさか幹部職の資金潤沢な色男から、こんな手近で手軽な仕打ちをされるとは思わなかった。

「礼斎の坊ももう一杯どうだ?」
「止めとくよ。眠くなっちまう」

 と遼。空になった器へ割り箸とレンゲを置いて忌憚ない。どうやらアルコールの摂取は大人しく諦めたらしい。
 そもそもだ。思い出したように“本家”近くの、人影まばらな暗路にやってくるこの中華ラーメンの屋台を、美味いからと由美に教えてくれたのはこの男。冬になればおでんまで提供してくれる赤提灯に、色褪せたのれんに、そぐわないこと甚だしい。

「相変わらず食うな。志朗さんと同じだぞ、お前」
「まあっ失礼ぶっこいちゃって。ビール追加するわよ」
「俺が悪かった。とにかく早く食え」
「色気もなにもあったもんじゃないわね」
「そのうちな」

 あしらいも露骨な遼は、腕の時計に目を落とす。誘った手前、由美には判らないようにしているつもりらしいが、配慮の決定打が足りていない。というよりも、細心を払う気概がまるでない。

「ねえ。銀色はまだ居残ってるのかしら」
「当然だな。昼間は周矢の同行だけで、余力は十分だ」
「まあカワイソウ。----ごちそうさま! 今日も美味しかったわ、オジさん」
「由美ちゃんの食べっぷりは好きだぜ。またどうぞ」

 ウインクをくれる渋いオヤジに身をくねらせて、先にのれんを出た由美は、遼をちらりと顧みる。支払いがてらに二言三言。先客の居なかった赤提灯を夜空の下に見出した時の疑念は、それで納得になった。

「だったら一人で来ればいいじゃない」
「そこまで空しい真似は御免だね」

 スーツの内へ財布ごと仕舞い込み、遼はもったいぶりもしなかった。

「何かあるの」
「いや。お前にかける面倒じゃないさ」
「人使い荒いんだもの、あんた。信用ならないわ」
「次も中華か」

 ヒールを履いてもまだ目線を上げなければ、若者の表情に届かない。もう煙草を咥えてしまった横顔に、汲めるものはひとつきり。
 由美は、そんな己に向けて大仰な息を吐き出した。

「次もじゃなくて、今度こそ」
「いつになるかな」
「待っててやるわ、気長にね」

 それきりの会話は遼の先導。悪癖でしかない紫煙を伴に、何を思うのか。意識は既に夜勤組放置の“本家”にあるのだろう。
 風に揺れる葉音ばかりだった周囲にもちらほらと街灯が立ち、やがて人のざわめき耳に届く頃、遼はヘッドライトの流れに手を挙げた。

「……“本家”に車あるんだけど」
「お前飲んだだろうが。明日もタクシーで来りゃいい」

 滑るように停車したタクシーへ乗り込み、由美は行き先を告げる。それだけで閉められようとしたドアの向こう、路端の男へ言ってやった。

「あんたに請求するわよ」
「ああ。」

 と身を翻した姿から、車は軽やかに遠ざかる。一路、由美の自宅へと。
 
 普段ならあと一人は専任長が在中し、かつ判事寮に責任者クラスが幾人も勤務している。それなのに時折、円滑な運営に欠かせないピースが幾つも同時に抜けてしまうことがある。
 数多ある支部の統括支援もまた“本家”の役割であり、幹部の采配。本部とも呼ばれていながらの人手不足は、この時節に限らない慢性の状況となっているのである。


「ねえ運転手さん。明日はきっと平和よね」
「ああ、まあ……、ケンカでもしたのかい。今のカレシと」
「嫌だわ、ちょっと。誰がなんですって!? 冗談じゃないわ。アタシにはね、嗣治さんっていう永遠の人がいるの! ピュアよ、ピュア!!」

 後部座席から身を乗り出して、掴み掛からん勢いに口つぐまされた運転手。滞り無く流れる車の群を、射殺さんばかりに睨みつけていたその客は、結局最後まで、折角の美貌を不機嫌に歪めたままであった。








<了>




【朔】 アメとムチ
20080620

image by 七ツ森

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