【朔】
アメとムチ

    2



「さっさと行くわよ」

 その後ろ姿は意気揚々。三輪はただただ唯々諾々に、真紅のスプリングコートを追いかける。


 意外に早々と執務室から戻った由美は、やはり仕事を携えていた。その数、三件。全てが判事寮から上げられた異常報告の初手。己がリーダーの実力からすれば難解な気配皆無ながらも、それ以前の不安を、咄嗟にしろ、三輪は抱いてしまっていた。
 こりゃ出掛けるまでに難儀するぞと決めた覚悟。異常を発見した寮員達の在席を確認し、聞き込みを促せば、そうね、と先に立った。その時は、次長不在である問題を起こすなと、執務室の主に厳しく注意されたかくらいにしか思わなかったのだが。
 事情聴取はすんなり進み、さすがに驚きを隠さない容姿一般的な寮員へいってきます代わりの濃厚なキッスを投げつけるに至れば、何かあるとする確信は用心へ。しかし、徒歩で出掛けた現場での処理は慎重細心かつ迅速。その行動に平時の大胆不敵以外を見出せないまま、仕事は既に三件目、最後の案件が待つ場所へと到着してしまった。

「ほらご覧なさい。言った通りじゃないの」

 と道の奥を見据え、車道に仁王立ちの藤原班長。
 同じ方向を確認した三輪は、歩道の縁石から頷いた。

「見事に派生してますね。“場”を崩した直後か」
「国道通行止めにはできないわよ」
「だったら早くこっちへ来てくださいって。----すんませーん! ご協力ありがとうございましたー」

 両腕広げ、背後の車両に通行再開を知らせる。測量だからと誤摩化した紅い女の奇行に渋々停車してくれたドライバーを一礼で見送る三輪の傍らを、由美は無関心に通り過ぎ、

「釣り呪符使って。拡散されると面倒だわ」
「どこの死角へ追い込むんすか」

 見回す周囲に適当な場所があるようには思えない。小声で話す今でさえ、周囲を流れる人が途切れない。

「それは腕次第」
「うぃーす」

 実社会への著しい損害が予測される大捕り物の場合なら、実行担当者が現場へ到着する段にはそれなりの対策が取られている。公的機関への働きかけが省かれた今件はつまり、由美と自分で穏便に済ませるべき相手ということだ。
 三輪は、財布に忍ばせてある中から、指示された釣り呪符を取り出した。一見すれば五百円硬貨程の紙切れも、燮和力を込めればたちまちにして非常に有効な補助アイテムと化す。ただし携帯のこの利便は、操作の難しさと直結する。
 小さなその呪符を、由美と共に立つ縁石添いを狙い定め、捨てるふりして投げ打つ。----不思議そうに見られながら、好き好んで車道と歩道の境へ立っているのではないのだ。これから追い込もうとしているものが、上手い具合に人気の狭間を、ぼんやりした黒い筋引きながら流れているのだ。
 “流れ”と称される、陰気鬼力の通り道を、拒絶反応が戻って来たのは、待つという時間も必要ない短さ。それはつまり、

「近いなあ」
「さっさと行くわよ」

 直に触れる“流れ”を読み、由美は大股に歩き出す。反射的に道開ける通行人に愛想笑いを繰り出して、三輪は、そそくさとリーダーを追いかける。
 ひとつ目の角、距離にして三十メートルを進んだところで、手応えが一瞬強さを増した。見事に喰らいついたままだ。

「この先に確か、資材置き場がありましたよね」
「任せるわ」
「じゃあ……行きます!」

 今度こそ先に走り出した三輪の背後をぴったり付いて来る硬質な足音。あの細いかかとでよくも走れるものだと、毎回関心する疾走は、目指す場所まで一瞬の停滞も見せなかった。
 春の陽気にじわりと滲む冷たい気配もまた。呪符という、餌に釣られているとは知らず、追い縋ってくる。
 三輪が足を止め、由美が振り返り、思いの外狭い空間に飛び込んで来た、それ。歪に膨らんだ形状のどこを、何、と区別はできないが、辛うじて判るものがあった。
 眼である。数有るくびれの最上段部で、濁った光が二対、由美と三輪を真直ぐに捉えていた。
 “場”から生まれ出しもの----“鬼族”
 安定しない形状は、その姿に成ったばかりの幼体特有の空腹、エネルギー不足の為か、或いは当ての外れた補給の意味を察したが故か。
 三輪が、役目果たした呪符を捨てて結界符に切り替えた時、一抱え以上の重い塊が吠えた。
 派生源となった“場”が抱え込んでいたエネルギーは、飛び躱した二人を正確に認識する知恵までを、生み落としたものに与えたらしい。
 陰気から、鬼力へ。極性備えた質の高いエネルギーに変わった力は、まず三輪を捉えにかかった。空気を震わせて迫る鬼力に、燮和力溜めた手を振り下ろす。ぶつかり合うエネルギーは相殺され、余波が、生身を弾き飛ばした。
 青いビニールシート被せた鉄骨らしきものに背中を強打し、声が出てしまった。

「ぉわ! いってぇ」
「カッコ悪いことしてんじゃないわよ」

 と由美の声は、鼻先ほどの眼前から。視界陰らせる要因は目眩ではなくて、いつの間にか立ち塞がる、すらりと伸びた生足二本の影らしい。

「……ぉぉ」
「目は覚めて?」
「はいはいっ!」

 大急ぎで転がり出たところでもう一撃。それはしかし、由美が腕の一振りで散らしてしまう。そして言われてしまった。

「遊びはおしまいよ、三輪くん」

 腕に巻きつかせた紅色の淡い燮和力に、由美のその気配に、我に返る。もしこれ以上長引かせれば、変幻自在なその燮和力は容赦なく撓るだろう。しなやかに打ちすえる鞭のように。
 三輪にも自負がある。形有る攻撃手段として燮和力を扱えるレベルの、燮和師と呼ばれる由美から、平素は無条件に実行権を、鬼族の処理を託されている自信。

「了解っと」

 むしろ優しい声に焚き付けられた。
 鬼族は、由美をこそ警戒して動かない。なれば誘えばいい。燮和力を少しだけ零してやる。と、やはり成り上がったばかりの鬼族は食いついてきた。真正面から、一直線に。
 違えることの方が難しいその標的に、一瞬の意識を集中させた最大火力を打ち当てた。








【朔】 アメとムチ
20080616

image by 七ツ森

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