【朔】
アメとムチ

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 風の温い午前十時。
 『一条』“本家”一般構成員専用の東口玄関を入ってすぐの掲示板の前で、藤原由美は、落胆の息を大きく、そして何度も吐いていた。
 見事な紅に染めた髪を揺らしてうちひしがれる姿を、行き過ぎる誰もが見ないふり。たまに挨拶がかかっても、無視を見越した微かな失笑付きだった。
 一心不乱に睨んでいれば表示が変わるといわんばかりのそれは、現時点で“本家”に在する人間を現した、出勤簿兼勤務表。由美の関心は上から数えて六番目----判事寮次長の部分。内部編成にて一定の権限を有したクラスは一際名前表示が大きい為に、ぽっかりと抜けたそこは、由美にとっては今日一日の陰鬱と同等である。

「やだわ。嗣治さんお休みなら来なきゃ良かった」

 思わず漏らした本音。帰っちゃおうかしら、と続かなかったのは、己と比肩する五番目の面子がたった一人しか居ない現実を認めたからに過ぎない。ましてその唯一の人間が、日中勤務の由美と、この時間から重なることの少ない夜勤組の若者であれば、いつ帰ってしまうともしれない。これは是が非でも居なければいけないらしいとする意識が、踵返すのをさすがに止めさせるのだ。
 我ながら高い意欲だと満足し、前線要員燮者の集う東棟の控え室へと赴いた。

「遅かったですね。仕事仰せつかったりしてたんですか」

 おはようございますと順序の違った挨拶に、由美は思い切り眉寄せる。部屋の入り口脇の壁にも同じ仕組みの電子掲示板があり、由美の名前が点灯したのは実に二十分前だったとは露とも気がつかない。

「遼がまた難癖でもつけてきたの?」
「違うんだったらいいんですよ。はい、昨夜の結果報告書」

 と暢気にファイルを寄越して来る、三輪浩志。藤原班と目される己が率いる燮者チームの副長である。

「今決済してくれるんなら、届けてきますけど」
「そうねぇ」

 異常報告として発行された時間を見るに、由美が帰宅してから入った仕事だった。“場”の処理だけで済んだらしく、担当した藤原班の一員の署名は勿論、要請先となった判事寮の完遂承認まで備え、由美のサインが加われば最終提出できる。ほんわかと小煩い青年ながら、この類いの雑務では非常に頼りになる。由美の手元で報告書が遅れることは稀。
 それに引き換え、視線を投げた先。別働隊のリーダーの机上には少なくともファイルがふたつ、灰皿と飲みかけたペットボトルの脇に避けられていた。

「居たの?」
「え……? ああ、美月くん。珍しいっしょ。再三筆頭から罵声コールされてましたからね」
「やってないじゃない」
「終わってますよ、ひとつ」

 預かってますと見せる笑顔が、由美には不可解でならない。三輪を使い走らせる権利など、美月乱にはこれっぽちもありはしないのだ。それを言うと、いつもと同じ答えが返ってきた。

「ついでだし」
「お人好しよね、あんた。蟠りってもんがないわけ?」
「何の?」
「四年前。派手にやられちゃってるじゃない」
「あれは別に。こっち来て間なしなら、誰だってテンパりますよ。今はほら大人しいし」
「わかんないわ、それ。大概な嫌われ者よ、アイツ」
「ま、共感するものがあるんスよ、男同士。----じゃ、持ってっときます」

 一見の違和感も不備もないことでサインを入れれば、三輪は即座に手を出してくる。本当に良く出来た部下だ。

「いいわ」
「はい?」
「執務室。行ってきてあげる、それも全部」
「……逆撫でしないでくださいよ。今日、人手少ないんだから」
「アタシがいつ、そんなことしたのよ」

 年上部下に歯を剥き、閑散とした部屋を出た由美は、途中にある判事寮を覗く。が、二間ぶち抜き部屋の、右と左を分ける中央席はやはり空。ねぇと声を掛ければ、お休みですと一斉に言われてしまった。

「んっまぁ失礼な連中ね! 優しいこのアタシを踏み躙って後悔するがいいわ」
「次長いないからって俺等に当たらんでくださいよ。で、何の用ですかー?」
「ふんっ。今からアタシ執務室へ行くのよ。さようなら」
「ちょっと待った!」
「藤原さんごめんなさーい!」
「これもどうか、ついでにお願いします!」

 わらわらと寄って来た寮員達は手に手に書類を捧げ出す。次長不在でいても万端のその準備は、夕刻にやって来るはずの少年に押しつける為のもの。

 本日もまた良好な虫の居所と、寮員達の愛想笑いから認められるは、筆頭などと呼ばれる存在だ。その人物が居座る部屋へ到達するには、東口玄関を行き過ぎて母屋の更に奥へ。山裾に広がる樹海から、無駄に広い敷地の何処へ絶えることない流れの袂に渡された小橋を越えた先、かつての本屋である“離れ”の、まだ一番奥である。
 ヒールの足音高く訪れた執務室。重厚な大扉をノックも無しで押し開く。煙草の苦い煙香が渦巻いて押し寄せ、秘書の青年が丁寧な黙礼と、言葉をくれた。

「これは藤原専任長。お早う御座居ます」
「ご苦労様です。ねぇ克巳さん。本日の筆頭のご機嫌はどの程度斜めなのかしら」
「何の用だ」

 部屋奥から飛んで来た憮然。細工美しい雪見障子の正面向かって左側、古めかしい格子が降りた大窓を背にする厳めしいくらいに大きな机で、眉間に縦皺くっきり刻んだ美貌が、総身赤で決めた女を睨んでいた。

「あら、居たのね、遼。書類の影で見えなかったわ」
「うるせぇよ。厄介事なら帰れ」

 と言いつつも『一条』筆頭・礼斎遼は、新たに持ち込まれた書類の置き場所を示していた。

「銀色の分もあるわ。一件だけで良かったの? 二冊ほど放置してあったけど」
「他は周矢達の同行だ。顔合わせたのか」
「三輪くんがね。----じゃあ、もらってくわ、コレ」

 判事寮から預かったうち[異常報告]と題された幾つかを、鼻先でひらめかせる。ここへ来るまでに全て目を通してあった。

「学生コンビでもいいが」
「美月前提でもいいのかしら」
「いや、任せる」

 と書類に戻された遼の意識。言葉数少ない若者では決してないだけに、春なのだと実感する。そう言えばと見遣った筆頭の隣席、少し離れた入り口寄りの机は小綺麗なまま。今回はどれくらい、救援要請を引き延ばして戻って来るつもりか。
 黙々と走らせるペン先を哀れに思えど、指示や追加はやはり頂けない。軽快に向けてやった背に、由美、と来たのはあと少しで扉という場所だった。

「今夜少し居残ってくれ」
「お肌に悪いじゃないの。どうしてもと言うなら、嗣治さんが来てる時にして頂戴」
「ここでの夕食はさすがに厭きた」
「オホホ。中華が食べたい気分だわ」
「仰せのままに」
「よろしくてよ」

 ひらりと手を振り執務室を後にして、引き受けた[異常報告]を再度確認した。
 いつも通り“場”の確認が三件。鬼族の派生を疑われるレベルでの異常は一件だけ。

「カロリー消費低そうな異常ばかりじゃない。シケてるわね」

 専任控え室にもう二件転がっていたかしら、と。自らの懐痛まぬ夕食に早くも覚える空腹感は、準備に取りかからんとする由美の足を、幾許か軽やかにしてくれた。








【朔】 アメとムチ
20080603

image by 七ツ森

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