想定外
3
木目が判る程に磨かれてはいても、床は床だ。口喧しい注意に習慣付いているとはいえ、こんな無造作を普段の自分なら許しはしない。
だが、そんな御託が通じるのも、本来の機能を果たせばこそ。哀れ無残に裂かれて古紙と成り果てた代物を、以前と等しく扱ってくれと願うほうが間違っているのだろう。
「あーもうサイアク……」
どれだけ未練たっぷりの視線を注ぎ、渾身の嘆きをかけようと、梓穂の手元へ戻った呪符はもう二度と役に立ってくれることはない。
公園での障害調査の後、鬱々と“本家”へ帰還した梓穂、周矢、そして立道志朗を迎えたのは、執務室への出頭命令を伝える秘書の久世克巳であった。そこで漸く待ち構えるものを思い出した年少組が逃亡を試みるも、志朗の苦笑に阻まれた。
着いて行ってやるから、と二人の背を押す彼が実は最高幹部の一人であればこそ、期待してしまったフォロー。実際に、腕組の筆頭と、判事寮次長の渋面に、肝心の呪符が崩壊した事による不測の事態だと進言してくれたのであるが。
呪符の臨界を見抜けなかった事がそもそもの原因だとされ、梓穂は、従兄でもある遼より言葉少なくも厳しい叱責を喰らい、謝罪をすら聞き飽きたの一言で却下されてしまった。
加えて呪符を失った意気消沈に、俯き堪えるだけの時間。矢面で責任問われる場面が極端に少ない立場まで論われた。
その時、志朗が妙な事を言い出したのである。
高い授業料で済ます気か、と。
梓穂も、周矢も、その真意がこそ判らなかった。処理範囲内と判断された上での失態、この叱責も、仕方がない結果と理解しているのだから。
しかし遼は、
「それなら後は任せるさ、最後まで宜しく。それで遅刻は帳消しだ」
と珍しい態度を示し、嗣治は憮然と頷いた。
意外な成行きに、露骨な溜息しつつも志朗はすんなりと執務室を後にして。慌てて追い掛けた梓穂と周矢が導かれたのは屋敷の一角、道場と呼ばれる総板張りの古式ゆかしい場所であった。
その途上に指示された、ここ一ヶ月の業務内容を綴ったファイルの提出がどんな意味を持つのか。黙読の青年に抱いた緊張はしかし、面倒くさいなぁと聞えた小声に瓦解した。
それでも愁傷に待ってみれば漸くの事。ファイルを軽く叩き、艶の無い金髪が大きく頷いた。
「----そっかそっか、なるほどねー」
充満する落胆を物ともしない第一声。幹部直々の指導にあるべき重厚さなど、欠片も見当たらない。幼い頃からの馴染みであるが故、らしいとは思うのだが。反射的にきつい眼を向ければ、きょとんとされて、少しばかりの腹立たしさが込み上げる。
「あたし達の仕事が何なわけ?」
「遼が意地悪っつうこった」
「はぁ!?」
「シローさん真面目にやりぃな」
「すんません、意味判んないスけど?」
「ヒントくらいあげるから。……と、その前に雑用係、」
「ほいさ」
「ここで何やってんだ?」
大量の書類を膝に抱え、板張りへ正座する里見省吾は胸そびやかし、
「珍しくシローさんが説教たれてるっちゅうんで見物に来たんや」
「そりゃどうも。お前もさっさと仕事戻んな」
「ケチンボ言わんと。なあ梓穂、」
「うるっさい! いいから出て行きなさいよ!」
「なんでぇなー! オレかて呪符の話聞きたいわー!」
「聞いてどうすんのよ。使えないじゃない」
「そういう問題と違うがな。コガクや、コガク」
「後学な省吾。----じゃあもう一緒でいいな。カバーは自分で頑張れよ」
煩そうな言葉尻、省吾だけでなく、梓穂や周矢の顔までも強張らせ、志朗の取った行動は不可解なものだった。
余分に増えた少年の荷物から書類を二枚引き出すと、それぞれ同じく二つ折り、その片方を梓穂へ差し出した。
「それが呪符の代わりな。やってみ」
「……や、でも。コレ紙じゃん?」
「ほんの気持ち、込めるだけでいいんだよ。ちょっとした実験」
「実験って……」
「大丈夫、大丈夫」
怪訝な年少組の前で、志朗は、動かしたとも見えない右手の二本の指に即席も甚だしい紙を挟むと、手首の捻りだけで少し離れた空中へと投げつけた。
重力に従うことなく、ぴたりとその場へ留まる異変を不思議と思う者は一人とて無い。そうなれば梓穂も、残り一枚の不格好な紙片を額近くへ捧げ持って目を閉じた。
待つ事一分足らず。倣うように投げ放れた呪符擬き。だがそれは志朗のものから離れた空中で、不安定に揺れ動く。
「うぅむずかしっ」
「次、周矢。あの中間に思いっきり燮和力ブチ込め」
「どうしてよっ」
「気にすんな、叩き壊すつもりでいけよ」
「……うっす」
逡巡も少なかった周矢は、ふたつの紙片が浮かぶ側まで寄り、目標とする点へ掌を向ける。 むくれる梓穂の腕掴みつつ見守っていた省吾だが。はっとなったように腰上げるのと、鋭い気合いが谺したのは同時だった。
「うぎゃあーっ!」
腰細い少年を一人後方へ吹き転ばすには十分過ぎた、一瞬の衝撃。見える色を備えたわけではない周矢の燮和力が狙い違わず、中間点に命中し、ほのかな火花上げるのを、乱れ飛ぶ書類の隙間から梓穂は確認している。しかし事が浚ったように収まった時、呪符擬きの紙片はそれぞれ元の位置を微動だにしていなかった。
「無理っすね、やっぱ」
結果を無念に思いこそすれ、あっさりと振り返った周矢に志朗は頷いた。
「材料が何だろうと封力がかかってる限りはな。耐性ってもんが発生する。但し今は俺の力、純粋な燮力が混ざってんからな、かなり低くなってるはずだ。後二発ってとこか」
指二本の指示を受け、周矢は立て続けに燮和力を叩き込む。その度に噴出する衝撃は散らばった書類を更に舞い上げ、しかし梓穂や志朗が蒙るは髪を揺らす程度のこと。省吾ばかりが喚きを上げて右往左往する中、誰かが、あっ、と漏らした。
強固であったはずの呪符モドキが一時に落下したのである。片方は紙本来の質量のまま、はらりと。もう一方は重みを備えて垂直に。
「これで見当つくだろ。な?」
と、呪符と並べられた紙片は二種類。真っ二つに裂けたものと、無傷なものと。低く唸って梓穂が手に取ったのは、綺麗に断たれている方である。
「志朗さんの、よね?」
「だな」
「って、それでエエんかい。幹部のくせに。梓穂の全然切れてないで」
「そこが夏越の封力と、燮力の違いでしょうが。でなきゃ結界師も、封印師も、絶対数の多い俺達で賄えばいいわけだ。周矢、俺のが軽かったろ」
「はい。あ……いや、まぁ」
「ちなみに公園の結界の内圧、今の実験以下な」
「ないあつ……て、空だったってこと? じゃあ何でこんな腐食してんのよ!?」
「だから遼の意地悪だっつてんの。あ、たーさんもグルだな、こりゃ」
「ちょっと……」
あっけらかんな志朗に、梓穂はいきり立ち、
「まさかあの結界、わざと鬼力入れてあったわけ!? どうして!? 何で遼さん、そんなことすんのよ!」
「気付かせるためでしょうが」
「だからっ」
「幾ら鬼の筆頭サマでも、呪符イっちまうほどのものを仕込みゃしないよ。さっき何を重点して怒られたっけ?」
口許へ運ぶつもりだったらしい煙草で示した、床のもの。梓穂の眼が落ち、少年達が覗き込み、沈黙が訪れた。
刃物で断たれたかのような紙片と、原型ままのもの。そして焦がれた痕残す呪符。並べたそれぞれの明らかな違い。やがて吐かれた息は意味を知るものであった。
「----あんな負荷溜めた覚えないんですけど。直接鬼族に呪符当てたこともないし」
「いや、相応のものには触れてるだろ」
「うっそ。いつ?」
「はっきり書いてあるぞ。前回の報告な」
「前……て、あの吹き返し? あれ未弱で、」
「ま、結果論だわな。おい周矢、ついでの省吾。ここまでの話についてきてるか?」
発しかけた言葉を止められた梓穂は首傾げ、一方の周矢、省吾は曖昧な表情で頷いた。それにはっきりした苦笑を見せ、志朗は、
「お馬鹿さんだな、お前等は。いいか、呪符のタブーは極性エネルギーだ。許容越えれば自壊する。----これで判るか?」
「それやったら呪符使う意味ないんとちゃうの? 前から不思議に思っとってんけどな」
「だから封力とか、人によっては燮和力使って耐性強化するの。今やってみせたじゃん。緩衝材ってやつ。----よね?」
「てことは、あの吹き返し、梓穂ちゃんの封力以上だったってことスか?」
「惜しい。今回問題視すべきはその処理方法だ」
「あれ確か、美月さんだったよな」
「乱さんがミスったって言いたいわけ?」
「おおっ判ったかもしれんで」
そう手を合わせ、胡散臭そうな眼差しへ省吾は嬉し気だった。
「ヨシリンがぶっ壊した張本人や」
「馬鹿じゃないの」
「ノンノン。極性イコール負の力、つうたら“半陰陽”の……」
「だから何?」
言葉尻を遮られて口ごもった省吾に、梓穂はもう一度、語気を強めて問いかけた。
「あたしの呪符に欠陥あったかもしんないのよ?」
「オ、オレはやな、」
「一緒に仕事してんのはあたしよ、あんたじゃない。無責任なこと言わないで」
「結果論と言ったでしょうが」
と、志朗。指に遊ばせたままの煙草で省吾、周矢を指して、梓穂で止まった。
「不注意だったのはあいつだよ」
「関係ないじゃん」
「媒介に陰性がある状況下で起こり得る不測の事態、な」
「仕事なんだから、しょうがないじゃない!」
甲高い叫びを放ち、梓穂は駆け出していた。愚かな行動だと、自分でも判っていながら足は止まらなかった。呼び止める声を無視して道場の外へ。後ろ手で閉ざした扉の乱暴な音が、鼓膜の奥で揺れている。
開いた手の中には、鷲掴んでしまったせいで余計に惨めな姿になった、わずか一時間前までは“相棒”だったもの。
一年という時間を掛けて丹念に仕上げた結果の、この無為。
気付くのが遅かった。
手応えがおかしいと感じた時、それが、何処で発生した違和感か、察する余裕さえあれば。火に炙られたが如き爛れた断面晒すことも、失態犯すこともなく、ましてこんな想いを味わうことさえも。
「----終わったのか」
その声は無情に過ぎて、梓穂を強張らせる。微かに漂うメンソールの匂いは煙草の煙。
握り締めた“相棒”はもう、和紙の柔らかさすら失っていた。
「な、……何、が? 」
「説教。出て来るまで待てと言われた」
「……ずっと待ってた、とか?」
「いや。」
「あ、そう……」
「終わったのか」
苛立たし気な再確認。握ったものをポケットに隠した少女の嘆息になど興味払わない相手は、道場と母屋と繋ぐ小橋半ばの欄干に腰下ろしての一服を気取っていた。
美月乱である。穏やかな風吹く中、浮き上がる程の銀髪白肌異彩な若者。薄い色のサングラスは強くなりつつある陽射しの所為だろうか。
「おかえりなさい?」
「明彦から預かり物だ」
会話を紡ごうとする気力を殺ぐことにかけて右に出る者もいない無愛想は、自ら近寄るつもりすらないらしい。梓穂に向け、小脇に抱えていた箱を差し出すのみ。
戸惑いが制止をかけた前進。理由は、ふたつ。
「兄貴?……どうして?」
「伝言もある」
「----サイアク」
「あ?」
「何でもないです。ハイチョウします」
「“此方で練り上げるつもりがあれば嬉しいのだけれど。お前の良識に任せます。届けたものを必ず使うと、約束してくれるのならね”」
伝言は棒読み。但し一言一句聞いたままに違いなく、思い起こされた「兄」の表情に梓穂は観念した。
どんな仕組みか知りたくもないが。何もかも全て御見通しなのだろう、今日の出来事それ以前から。
「約束、ね……」
足早に寄った、乱の側。温み十分な外気に感じる冷たさはきっと、自身の心境なのだと言い聞かせ、出した手に乗せられたのは白木作りで細長い小箱。入っていたのは、呪符の形をした苦さだった。
純白の和紙に映えた墨痕淋漓なまじない。制服のポケットに押し込めたものと比べるべきもなく、得られる効果雲泥の差だと、視覚からでさえはっきりと伝わるこの代物は、いわゆる逸品、まして「超」の一文字冠せられることだろう。
「このお使いでわざわざ兄貴んとこへ戻ったの?」
知らされていなかったと語る無言。そして箱の中身へ注がれた視線には、梓穂へは皆無の関心が伴っていた。
「乱さーん。ねえってば!」
「……何だ」
露骨に顔しかめ、乱は短くなっていた煙草を素手に握り込む。ひやりとする行為だが、水に浸した花火のような音を上げる白い掌には灰も残らぬ手品と知っている。
梓穂や周矢、志朗にも有って異なる力を簡単に、そうやって当り前に扱う若者へ言いたい事も、伝えるべき事も、胸中溢れる寸前ほどあったはずなのに。薄いレンズ越しにでも寄越されていた視界が、すっと逸れ、諦めに変わっていた。
「よお、話題のオニイサン。久しぶりだねー」
『一条』三役幹部のひとつ・補佐を務める青年の呼び声。思わず小箱を後ろ手にしてしまったのは勘付いていたのかもしれない、その平気。
半間に開けた扉から身を乗り出す志朗へと、不躾な舌打ちを見舞った乱は、
「長え話してんなよ」
「鉄は熱いうちに打てってな。で、そっちの用事は済んだのか」
「ああ。」
「よし。じゃあ梓穂ちゃんカムバックね」
「……やだぁ。せっかく乱さん帰って来たのに」
「だってよ、俺のご講義お前も有難く聞てくか?」
踵返された意思表示にも志朗は笑いながら、
「もちっと掛かると、遼に伝えといてくれや」
「行かねえよ」
「いいから、顔出しておけ。今なら一時間もかかりゃしない」
「……何かあるのか」
「ご立腹」
わずかに歩を緩め、振り返る。梓穂が薄い視線を感じれば、
「----判った」
「ちょ、……それどういうこと!? ひどくない!?」
張り上げた声は渋茶色の列柱に紛れ、黒いジャケットの背中も直ぐに見えなくなった。
対照的な置き土産の白さ。内容物共に軽いはずが、視線をやればやるだけ重みを増している気がするのもまた、腹の辺りに渦巻くものの仕業だろう。
「えらく超特急便だな」
「そっちがチクったんじゃないの」
その為に出て来たと言わんばかりに、志朗の咥えた煙草から上がるようやくの紫煙。雲ひとつない、まだまだ明るい空に消えて行く。
「限りなく黒い奴は執務室。お手伝いしてあげたよね、俺は」
「うさんくさ」
「後進の為なら汚れ役だって任せなさい」
「本気でショック受けてんだから」
「どっちに?」
「最低志朗さん」
悪びれない低い笑い声を睨みつければ、少しは冷静になった自分を自覚する。
誤魔化しえない事実の詰まった、両手に余る箱。そして制服のポケットには、痛恨の現実が入っているから。
「さっさと続きやってちょうだいよね」
「正直俺はもう厭きたけどな」
「仕方ないでしょ」
そう言って、一歩を進める先の静まり返った扉の影に動くもの。梓穂は小さな苦笑を浮かべて見せた。
今日という予想だしなかった時間はまだ当分、終わりそうにないのだろう。
【朔】 想定外
20080516
image by 七ツ森