【朔】
想定外

    2



「お願いします」

 愁傷に受話器を戻してみたとて状況は変わらない。24インチ液晶ディスプレイに表示させた勤務表を眺め、判事寮次長・渡理嗣治(わたりつぐはる)は小さな息を吐いた。
 待てど暮らせど連絡寄越すでもなく三時間。遅れているのか、来ないつもりなのか、現れる気配のない人間のおかげで既に予定は大きく狂っているというのに。

「師匠? どないしはったん」

 懐っこい物言いに思い出したその存在。
 両脇に分厚い書類綴りを抱えたまま、机の向こう側に立っている赤茶けた髪の少年。執務室へ書類を届けるよう頼んでおいたつもりだが、今しがたの連絡の結果を知りたかったのだろう。
 大きな眼の注視に頷いてみせ、

「確保が終われば戻って来るよ」
「でもアイツの呪符、若さんが作りはったのとは違いまっせ」
「御宗家直々の教授だと聞いているが」
「せやかて作ったんは梓穂やもん」

 大丈夫かいなと、前線要員二人を案じる里見省吾は、最年少組と呼ばれる夏越梓穂とは幼馴染みにも等しい付き合いがあり、都築周矢に至っては従兄弟の関係だ。

「だとしても、携帯許可を出すのはこちらだよ。信頼性の証明だ」
「でも師匠ぉ」
「俺の決定が不服か」

 割って入った美声の低音に、省吾はあからさまに口尖らせる。
 恨みがましい視線の先には若者が一人。誰もが忙しく立ち働く部屋に無用の緊張持ち込んでいるのは、傲然と煙草を吹かすその態度。

「メッソウもない」
「ここで拗ねてないでさっさと運べ」

 頭ひとつ以上低い位置から睨んでくる少年を、行けとばかりにあしらうのは、『一条』筆頭・礼斎遼(あやときはるか)。
 一見すれば職種を勘違いされそうな若き最高幹部の扱いに、ますますむくれる雑用係。助け船を出すのは何故か“師匠”などと呼ばれ、懐かれている青年の役である。

「頼まれてやってくれないか」
「ものぐさめ」

 と悪態を吐きつつも、荷物抱え直した省吾は迅速に、開け広げな扉を出て行った。明確な退室要求であると心得るからこそだ。
 不機嫌にも賢明な足音を苦笑いで見送り、嗣治は、

「意地の悪いことを言ってやるなよ」
「本人に言えもしない苦情を、この俺が聞いてやるとでも?」
「何が?」
「彼女の呪符」
「不具合の話か?」
「その心配りですらないからな、あれは」

 禁煙部署に設置された灰皿へ、半ば残ったままの煙草圧し込む若者の関心は古馴染みの少年に非ず。今しがたの報告書き足した書類を渡せば、直ぐにその視線が落ちた。

「もぐり屋放棄の可能性は思いつきもしていなかった」
「精度以前の話だな」
「彼等の判断基準に、もぐり屋条項はそもそもから入ってないだろ。美月くんの同行があれば別だったかもしれんが」
「探索障害調査の前提を考慮してない証拠だ」
「それを庇うわけじゃないが……いいのか? 無事には済まないぞ」
「健闘を祈る」

 新しい煙草を咥えながらの冷淡も、端整な横顔には苦い笑み。年少組の少年と少女が、紛れも無く己の傘下である以上回避させなければならない“いつも”から、明らかに逸脱しているとは承知なのだ。
 それでも行かせた。最早決まり事めいた、代わり映えしない注意事項だけを与えて。
 だからこそ若きこの実権所有者は此処で、現場からの情報が逸早く届くこの部屋で、無為に煙草を消費している。----そう思いでもしなければ、結果が伴うかさえ定かならぬ強硬は時間の浪費。
 我関せずと行き交う人員の気配は忙しなく。
 判事寮預かる身に今出来るのは、確実に回されるだろう事後処理を如何に迅速に捌いていけるかの模索であった。








 目的とするわずかな一点に向け、呪符を投げ放つ。
 ただそれだけの行動が引き起こすは、眼を疑うような現象だ。
 二対の視線が交わる中点に薄紙が到達した刹那、すべらかだった景色が水面のように波打ったのである。歪ながらも球形と判る異常現象は、大人ひと抱えほどの範囲に及ぶ。高さは3メートル強。

「おぉデカ」
「すごーい」

 怪異を目の当たりにしても、周矢と梓穂、異口同音の乏しい緊張感。馴れがもたらす余裕か、成果への自信か。それでも真顔の観察が緩んだのは、たっぷり5分を経てのことだった。
 鳥影すらも映し込む球体の怪現象は、今や凪いだ海のように静まり返り、時折の小波も風の悪戯。
 見交わした視線に頷き合い、今度は周矢が携帯電話を取り出した。完了報告の為にメモリーナンバーを押す。
 一回、二回。コールに集中していた耳は、それをどう聴いただろう。ビシリッ、と鳴った不穏な音。揃って顔色が変わったのは当然か。
 恐る恐る見返った四つの眼球が捉えたのは、縦に真直ぐ入った見事な裂け目。ゆっくりと広がるその幅が、景色をどんどん時化に替えていく。

「ヤバ……ッ」

 そう口走るや体ごと向き直り、梓穂は両手を突き出した。

「梓穂ちゃん!」
「ダメ! 周矢さん待って!」

 反射的な構えを叱咤する横顔は青い。精一杯の力を送り出そうと握り締めた拳が震えている。

「……ちょ、ハンパなく……重い……っ!」
「外せって!」

 迅速な対応はいつまでも報われないと、二人は十二分に理解しているのだが。

「わーどうしよう!!」
「そっちで合図くれりゃ何とかする!」
「あい、ず……って! ぎゃーもうっなんで! お、……かしいって、これぇ!!」

 その奥に闇を抱えるが如き暗みを覗かせる裂け目は、懸命なる対処を弄って大きく身震い----弾けた。
 叩きつける風の轟きが悲鳴を掻き消し、駆け寄った手を遅らせた。衝撃に浮き上がった細い体を辛うじて掴まえたものの、踏み込めなかった一歩がバランスを狂わせて周矢自身の足を掬ったのである。
 梓穂を庇う形で地面にもんどり打った周矢の意識には、それでも、来るであろう第二波----閉じ込められていた“もの”が放つエネルギー波にこそ備えろと叩き込まれた警告が、行動に移れと命じていた。
 だが、如何に軽くても一人分の体重負荷を受けて吹き飛ばされた周矢に、態勢立て直す時間は無きに等しい。球形の怪異が息を止めるかのように不気味な静止を見せた刹那、腕を振り抜いたのは条件反射でしかなかった。
 線だった裂け目を、真波と呼ばれる激烈なエネルギーが突き破ったのもまさにその一瞬。
 無色透明な熱力の衝突が鮮やかな火花を散らし、競り合い、瞬く間に飲み込まれ、梓穂が咄嗟に燮和力を放ってみるも間に合わなかった。
 輝きは弱々しくあっけなく飲み込まれ、ぞっとしない気配が膨れ上がる。
 真波の襲来に持てる力の全てで身構えた二人。見開いたままの視界で蒼白い一旋が閃いても、全身の緊張は高まるのみ。
 そして----
 鼓膜を叩く風鳴りの鋭さも置き去りに、押し寄せる力を迎え撃ったそれは、あからさまに周矢と同じ手法。違いは威力、そしてスピード。二人に覚悟を強いた脅威をいとも簡単に消し去った救い手は、文字通りに腕一本。

「何やってんの、危ないなあ」

 間延びした声は平穏な風景にこそ似つかわしく。日常を妨げていた歪みなど、最初から無かったかのように二人の頭上、静かな風に桜が舞っている。

「ほうら、立って立って。重傷とみなして綾子呼んじゃうよ」

 怪我無しを見抜くあっけらかんを、勢い良く振り返った二人の直ぐ背後。同じ様にしゃがみ込んだ、咥え煙草の温和な笑みがあった。

「……志朗さん」
「はぁい」

 件の右手をひらひら振って、金髪もケバケバしい青年は何気なかった。

「でさぁ何やってたのお二人さん。ボランティア?」
「ボランティアって……、どうして」
「仕事に見えなかったからさ」
「いや、これ、判事寮からの調査だったんスけど」

 スカートの裾を捻くり回す梓穂の後を次ぎ、周矢はぐるりを見回した。

「“流れ”もあったんで追いかけてみたら、さっきの結界に出くわしちまって。確保するよう渡理さんに言われましたが、このザマです」
「たーさんが? やれって、アレを?」
「連絡取ったんは梓穂ちゃんなんスけど。だよな?」
「だって嗣治さん、あたしにできるっぽい事、言ったんだもん」
「ふぅーん」

 である。
 しょぼくれる細い肩をひとつ叩いて腰を上げた青年は、その場へと簡単に足を進めた。今はもう何事も生じない。

「で、遼の指示は? 居たんでしょ」
「俺らは会ってないっス」
「判事寮単独ねぇ……よっ、」

 と、立道志朗(たてみちしろう)は荒れた痕跡だけを残す砂地から何かを拾い上げた。それは、大きな手の影に収まる程の白っぽいもの。
 周矢が覗き込もうとすれば、それを両の手の指で抓み、またしゃがみ込んだ。

「これなぁんだ?」

 梓穂の目線の高さで揺らされているのは、和紙が二枚----元は一枚であった物の無残な姿。
 周矢は無言で天仰ぎ、引っ手繰られるように青年の指先から呪符が消える。そして重い沈黙を皆がたっぷり味わった頃、悲壮な声が春の公園に轟いた。








【朔】 想定外
20080507

image by 七ツ森

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