通常業務 「現場」
特に“何か”があるように見えないのはいつもの事だった。
意識を少しだけ、そこ、へ集中させれば----判る。ぼんやりと、けれど確かな形を有したモノが、そこにはちゃんと存在している。
「いつでもいいわよ」
頃合が判ったような、背後からの幾分暢気な物言い。
思わず振り返った梓穂を、赤い髪揺らす由美が不思議そうに見返してくる。
視えるのかと、基本的な状況を訊ねられた経験だけは辛うじてない代わりに、「できるのか」と問われるいつも。
歯痒くもある平素を、由美が----別チームのリーダーを張る存在が知るはずもないのだけれど。
「……まずは“場”を抑えます。判別及び実行指示の補助、お願いします」
「はぁい、お任せ」
随分と楽しげな笑顔に小さく息を吐き、梓穂は、忍ばせていたものをポケットから取り出す。
わずかな風にひらりと踊るは、短冊状の和紙が一枚。墨で認められた「縛」の一文字は、書き初めたように鮮やかなまま。けれど表面は毛羽立ち、しっかりと手に馴染む。
この一年ずっと使い続けていた成果。無用な意識を注がなくても、自然と力を送り込めるようになってきた。
やがて「縛」の文字が仄かな輝きを放ち、梓穂は、目標物に向かってその和紙を----呪符(フダ)と呼ばれる補助アイテムを投げつけた。
中空へ張り付くようにピタリを留まり、明らかになったソレの全容。
ゆらり、ゆらりと不安定な輪郭。水に溶かした絵具のように曖昧な境界を持ちながら、その中心はひたすらに、黒。
満遍なく降り注ぐ陽射しの欠片さえ通さぬ闇色の濃さに、不安が悪戯に煽られるような。
「鬼族(きぞく)の派生は確認できません。未分化の“場”だと判断します。クラスは……D」
「分化の可能性は?」
「許容はこれが限界だと思うし、えっと……大丈夫です」
「なら、いいわよ。やっちゃってちょうだい」
空中にぽっかりと開いた闇穴を真剣に読み解けば、待っていたのはそんな答え。
「あたしが?」
「こっちのちょっかいでも鬼族は出ないと判断したんでしょ。だったら問題ないわよね」
「や、でもあたし、現場での実行権利ないし。知ってる?」
「由美はね、あの無愛想男より権力ずぅっとおっきいのよ。知ってる?」
本来のリーダーからは絶対に聞くことのできない、実行指示の許可。
嬉しい反面、だからこそのプレッシャーを感じてしまう。
失態犯した時に責任を取るのは梓穂ではなく、許可した由美になってしまうのだ。
だが----今さら迷っていても仕方がない。少しでも、そんなリーダーの冷めた眼を見返したいから、本部とも呼ばれる場所で「仕事人」などと呼ばれる女性への同行を願い出たのだ。
「ちゃんとカバーよろしくね、由美さん」
ぱんっと打った手は自分への気合。
制御の自信はかなりある。足りないものは、実行の成否を握る燮和力(しょうわりょく)の絶対質量----それが上層部の評価だと知っている。
変異に張り付いたままだった呪符は、梓穂の変化を敏感に汲み取った。作製の用途とは異なるが、この程度の差異で砕けてしまうなら、呪符と梓穂の相性はそれだけのこと。
だが、慣れない作業である。身の内から、空間を隔てた呪符へ。ゆっくりと燮和力を注ぎ込んでいく。
さすがに一年使い続けた愛用の品はすんなりとエネルギーを受け入れ、溜めていく。
由美クラスの燮和力があれば必要のない手間。
一人では決して現場に出してもらえない理由。
燮和力と呼ばれる特異な力を持つ梓穂達が、日夜対処に走るあらゆる異様怪異の全ての原因であり、きっかけであり、終わりが、空間の歪みとされる---- “場”。その性質は極端な負。無機有機を問わずに及ぼす影響は著しく、真逆の性質である燮和力による根幹解決が、より以上の災厄を未然に防ぐ。
失敗は許されない。
ひとつのミスによって蓄積されるダメージは、“場”の孕む危機の底上げでしかない。
だから十分に時間をかけた。梓穂でも可能と判断されたからこそ、任せてもらえたはず。
余剰なくらいに燮和力を注いだ呪符のせいだろう、“場”から伝わる圧迫感が増してきた。
「いっきます!」
見えざる“場”の中核へ、燮和力を思いっきり叩き込む。
そのイメージと、現実の展開に、タイムラグはなかった。
前触れもなく、すぽん、と呪符が沈み、瞬きひとつの間を置いて、闇が震え、膨張し、前後左右上下なく風が吹き戻ってきた。それは微弱で、だが冷たく、水に流した墨のような筋を引きながら“場”に吸い寄せられ----消滅。
春の陽射しに紛れ、ひらりと地に落ちるは呪符一枚。
丁寧に砂を払い、またポケットへ。
単純だと思ってしまう。
この結果だけを見ていれば。
「終わりましたー!」
直立不動で報告すれば、由美はすぐさまやんやんの喝采をくれた。
「梓穂ちゃんカッコいい!」
「あはは。アリガトウゴザイマス」
「前よりもずっと速くなってるわね」
鳴り止まない拍手は大袈裟で、嬉しかった。
褒められたりしない、いつも。完遂こそが当り前の世界。
「じゃあ、これ」
差し出されたのは由美の携帯電話。ディスプレイにはもう既に「礼斎遼」と表示されている。
通話ボタンを押せば、その名を持った一番上へとかかるのだ。
「報告どうぞ」
「え、なんでよ」
「今日もスーパーにご機嫌うるわしいんだから、気分転換? やっだ、あたしってば優しくて気持ち悪い」
やだやだと、由美は相変わらずな不明を吐いて、梓穂に携帯電話を押し付けた。
さすがに迷った。
そもそもから実行許可の下りていた今件だが、それはあくまで由美を仮定してのこと。平素別働隊の、まして梓穂の任ではない。
だが本来の報告義務保持者は、赤いルージュもくっきりした唇を笑みの形に引き結んだまま。わざとらしく身体の後ろに手を回す。
「ちょっマジで?」
「由美はいつでも本気なの」
「知らないからね!」
第一声の気配によれば押し付け返せばいいと思い決め、通話ボタンを押した。
【朔】 通常業務 「現場」
20071101
image by 七ツ森