通常業務 「礼斎遼」
薄紅と新緑が混在する景色を何処までも望める“本家”最奥の執務室。
礼斎遼は淡々と、チェック済みの書類を紫檀の机上から払い落としていた。
30分に一度は聞かれる耳障りな音。扉近くに席を構える秘書役の青年は無言で目を上げるだけ。
この数日来、遼----『一条』筆頭の机回りの床上は、度を越した数の再提出要求書類の置き場所と化しているのである。最初こそは足場が埋まる度に腰を上げていたが、遼自身に「後で片付ける」と、側に寄ることさえも拒絶されてしまっていた。
「克巳さん、」
機嫌の悪さも露骨な声。
この季節は毎年、本部の、否、組織の統括運営担う遼の雑務は増える一方で。本来なら在席しているべき彼の上司・総括の命令で活を入れてもさしたる効果無し。春という、どうしようもない浮かれ気分に重なる一般社会の人事移動で、慢性的人手不足がピークに達する所為もある。
が、拍車をかけているのは、遼の補佐役の不在。一週間の予定を過ぎても、何かと理由をつけて、救援要請で赴いた先から戻って来ないのだ。
「異常報告は回してくれ。少し出て来る」
空になったらしい煙草のパッケージを握り潰し、席を立つ。
処理速度以上に詰まれる書類と、右肩上がりに発生する事変。
一時の気も抜けない時節、響くノックは無情の報せか。
「入れ」
低音の入室許可に、そろりそろりと開いた大扉。覗いたものが赤茶けた髪と判れば、遼の口から溜息が漏れた。
「美月へ渡してから戻って来たんだろうな」
「ぎっくぅ」
胸元へしっかり黒い書類綴りを抱え、里見省吾が顔を出す。わざとらしいその笑みが、本人を探し出せなかったことを物語っていた。
「だってなあ、ボス。みんな非協力的なんやもん」
「携帯は」
「出てくれへんかった」
「鳴ったのか」
「そらもうばっちり無視されたで」
「いつ?」
先に遼自身で二度、携帯と、内線からかけた時は話し中だったこともあり、省吾が接触できなければ居ないものと考えていたのだが。見せ付けられた8分前の発信履歴は、居場所を特定できたも同じだった。
「判った」
「ほんならオレはこれで、」
「期限は明日18時。厳守だ」
差し出された書類を引き取り、代わって再提出の一群を示せば省吾は悲壮な声を上げる。各人各部署へ届けるだけでも相当な量に、加えた伝言。先々であらぬ苦情を言われるのだろうが、母屋と離れを繋ぐ書類配達が主要業務の少年だ。無言で見遣れば最敬礼し、机に飛んで行く。
「直ぐ戻る」
何やらぶちぶち聞こえる呟きを背に、何時間ぶりだろう外の風は心地良い。
執務室と呼ばれる最奥の部屋から、塵ひとつ無く清められた板張りの回廊が行き先は二ヶ所。この屋敷で働くその大半が使用する母屋と、彼等が「別邸」と呼び立ち入ろうとしない別棟と。特に規制設けているわけではないのに、いつしか関係者以外立入無用の暗黙の了解ができあがった場所で平然と、惰眠貪れるのは今や一人しかいない。
案の定、踏み入った無人の別棟の、陽だまりになった軒下には、猫のように丸まって転がる背中があった。
着信ランプが光る携帯電話は手の届かない距離。拾い上げ、覗き見た着信履歴は昨夜遅くの己、梓穂や省吾、そして判事寮の名前のみ。
「こっちの連絡には出るなとでも言われたか。美月(よしづき)」
「何の話だ」
平坦な声に、寝入りの気配は微塵も無い。
姿を消していた数時間、穏やかな風にただ吹かれていただけなのか。
「一時間前に二度鳴らしてる。話し中だったな」
「気のせいだろ」
「俺の手元に届く情報だけが、世は事もなし、か?」
「しらねえよ」
爪先が触れるほど近づいてやっと、肩の辺りに反応が見えたが、起き上がろうとはしない。これ以上は時間の無駄と知っている遼は、携えて来た書類綴りを開き、見事な銀髪に隠れた鼻先へと立てた。
「口頭は認めん、昨夜の報告を書け。それがここのルールだ」
「……わかってる」
不貞腐れた様子でようやく身を起こす可愛げのなさには、毎回手を焼かされる。
だがそれも仕方の無い性かと、硬質な面差しに諦めも沸いてくるのだ。
やや青みがかった銀糸の髪だけならともかく、同じ色の睛は獣の虹彩を持つ。唇の肉付きは酷薄を如実にし、両耳の紅いピアスだけが明確な色素。他の誰と比べるべきもない、ずば抜けて美しい顔立ちであるのは確かなのに、見惚れるには何かが欠けている。
遼を見上げる不機嫌さも、それ故に作り物めいて感じる現実味の薄さ。
美月乱----人喰らう異形より生まれたという実しやかな囁きを、一度たりとも否定せずにこの4年を過ごした若者である。極めて寛容な人間以外身近にする者がいないのは、異様な形でも、素性でもなく、その頑なさ。
「持っていく」
と、煙草咥えようとした手にペンを握らせても嫌なく受取る素直さえ、この1年2年に生じたお互いの慣れだった。
乱と名付けられた若者が、胡坐かく膝に書類を開いて直ぐ、遼の携帯が慎ましい着信を告げた。ディスプレイの表示は、先刻現場へ出した者である。
「終わったか、由美」
「わーごめんなさい! 梓穂です」
「あ……と悪い。どうかした?」
「どうっていうか、あたしが完了報告しろって言われて」
慌てる少女の声に緊急性は感じない。だが何故、携帯電話の持ち主当人でないのか。そう尋ねれば、紅い女の所在は予想を外れて真面目なものだった。
「判事寮の人達と合流したんで、流れの確認してもらってます」
「結果は?」
「えっと……あ、オールクリアでっす」
「承知した。ご苦労だったね、引き上げを伝えてくれ」
頭上の会話も我関せずに、乱は、定形書類を埋めていく。これなら直に上がるだろう。
「特別にご褒美もあるしな」
「あたしにってこと?」
「ああ。確保して待ってるから」
「えー何よ遼さん、」
「戻って来れば判るよ」
「はーい、即行で帰ります」
と、業務連絡がいつにない朗らかさで切れようが、遼のやるべきは何ひとつ減りはしない。
「それで今日はもう上がっていいぞ」
「あ?」
咥え煙草に火も点けず、怪訝な銀眼の光はやはり鈍い。
遼と共にこの3日、連続で詰めていた。昨夜だけでなく現場にも出した以上、さすがにもう限界のはずである。
「梓穂ちゃんが戻れば、六郷邸へ送りがてらお前も帰れ」
「来たのか、立道?」
「いや」
「なら、居る」
「愁傷な心掛けで嬉しいが、」
膝近に放り出されたままの、乱の携帯。傷まみれで古めかしい。連絡を寄越さない理由に電池切れが多くなってきて、そろそろ支給品への切り替え時だった。
「そう言われたのか?」
「ああ」
「なおさらだ、仮眠しに帰れ」
「おい、」
「夜には戻って来い」
獣眼細める若者に、話は終わったのだと判らせる為には書類を取り上げ、背を向けることまで必要だった。やがて聞こえたライターを灯す音。執務室へ顔を出せと念押せば、ああ、と返って来た。
そして来た道を辿った小橋の袂。一瞬迷って向けた奥への足は、また鳴り出した携帯によって方向転換余儀なくされるのである。
春うらら。
恨めしいほどに空は晴れ、溜め息だけが舞い上がる。
【朔】 通常業務 「礼斎遼」
20071203
image by 七ツ森