遭遇するもの
大雨や台風、足を取られる積雪でもない限り、朝食前のランニングは習慣になっている。携帯電話を持っていた記憶が玄関まで、というのも。
そして繰り返される失敗に、自覚だけは着実に積もっていく。
犬連れの顔見知りを会釈で追い越し、都築周矢(つづきちかし)は今日も順調に走っていた。信号待ちでも足は止めない。公園通りの階段はダッシュで上る。同好の人々と挨拶を交わしながら巡る、お決まりのコースは一時間の行程。
この道路を左に曲って直進すれば土壁に松の木という旧家の集まる一角、自宅への行程という所で、周矢は迷わず右を、新興住宅の方向を選択した。
学校が春休みの間に、決まり事の距離を伸ばそうと考えていたのだ。進路変更はその下見。別件で地図を眺めていた昨日、大回りして自宅へ戻れるらしいルートを発見したのである。
やがて踏み入ったレンガ風の路面に、履き慣れたシューズはすぐに馴染み、暖色で統一された屋並びは新鮮だ。
だが、どこかよそよそしい。ちらほらと人の姿はあっても聞こえてこないのだ、挨拶を交わす声が。軽快に駆ける周矢を、却って胡散臭そうに一瞥する彼等は皆、足早なスーツ姿。
どうやら巡り難い区画かもしれないと、周矢はスピードを上げた。
足はまだまだ軽い。広いグラウンドを全力でボールを追いかける日頃の練習に比べれば、自分のペースで走り続けるランニングの疲労は心地良い準備運動。
更地が目につく新興地の外れでようやく速度を落とした時も、さほどに息は上がっていなかった。
「結構広いよな」
地図上では、わずか十数センチの立方形に過ぎなかった住宅街。現在もまだ造営中のせいか、通行止めの道は開通していたり、あるはずの道が行き止まりだったり。実際に走ってみなければ、その辺はやはり判らないものだと、周矢は、分譲中ののぼり翻る殺風景を見回した。
「道間違えたな、こりゃ」
先刻渡って来た県道の、少し奥に広がるはずの旧家の家並は春霞に遠い。
学校ある日のうっかりなら遅刻だったと、宅地会社が設置したらしい案内板の前で、一人頭を掻いた。
それでも足は動かしたままだった。身体も丁度良く暖まっている。
だからこそ勘違いはしなかった。
ぞくりと背を抜けた、違和感。
周矢を振り返らせた無意識は、直ぐさまそれの確認へと移り----見つけた。
交差路のど真ん中。おざなりな舗装の表面近くに、黒いものが揺らめいていた。
一見すればただの煙。
だが、周矢が慌てて駆け出す間に、その黒い靄は、たなびく煙のように一定方向へと進み出したのだ。風に逆らい、ゆっくりと。
「待て待て! いきなり“流れ”んな!」
そう喚いて手を伸ばした。
黒い靄の先端へ、進行を妨げんとして。
触れた感覚はいつもながらに皆無。
それでも見事に爆ぜた。
流れる靄そのものが一瞬で。
「っ、痛ぇ」
十分な時間を持って手を振り払ったそこに、周矢の意識引くものは無くなっていた。
しかし、注ぐ視線はまだ厳しい。入念に周辺を観察し、空仰いだのはたっぷり5分も経ってからだった。
「あーわかんねぇ。こりゃ報告だな」
と、探ったジャージのポケット。右、左、上着まで叩いてみても、携帯電話は出てこない。途中で落としてしまったかと考えたが、最後に見た記憶は、シューズの紐を結ぶ為に脇へ置いた玄関先のこと。
不安はあった。
今、この場所を離れても安全かどうか。感覚の鈍さを自覚する周矢に、的確な判断は付きかねるのだが。
結局戻らなければならない自宅。ならば急いだ方が良いと、軽く筋を伸ばし、全速力で駆け出した。
【朔】 遭遇するもの
20080110
image by 七ツ森