遭遇するもの
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異常報告兼実行指示書へ、実際の行動と結果を書き加えれば[報告書]の完成だ。本来はここで提出するべきものだが、現場での指示責務負っていた者の承認があれば完成度はなお高くなる。
隠し立ては無し、という意味のサイン。その手間ひとつで後々の面倒はなくなるのだから、今の十数分を、与えられた控え室で待っていればいいと思うのだが。
乱は、届ける先を問うた周矢に、後で見る、と屋敷の奥へと立ち去っていた。
「ご苦労様」
たった一言の労いを、周矢や梓穂が聞けるのはいつも通りの提出先、判事寮(はんじりょう)でのことである。
渡された報告書を確認した判事寮次長・渡理嗣治は、やはりな、と呟いた。最終承認欄手前の空白のせいかと思っていたのに、嗣治は、周矢から梓穂へと視線を流し、
「美月くんはこの事象について何か言っていたか?」
「いつもと同じ、なぁんにもなしです。直前に促してくれただけ」
「判っていた?」
「……たぶん」
「君は?」
「現場でなんとなく。ていうかね、嗣治さん」
と、梓穂は訳の分からない周矢を指し示しながら、
「“流れ”は観えないでしょ。それで、じゃあ鬼族だろうなって感じ」
「こちらで鬼力を探知した理由は」
「うーん……と、周矢さんが朝に消した残りかな。ちょっと自信ないですけど」
「“場”も無かったんだね」
「未発達の“場”はあったかもしれないけど、あの鬼族、最後か……唯一の支配クラスです」
嗣治の質問にすらすらと応じた上での梓穂の断言に、周矢はようやく、己の遭遇したものの正体を、大きく読み違えていたのだと気がついた。
「最初っから鬼族の派生だったんスか!?」
「自然崩壊した“場”と、成り代わる寸前の幼体鬼族。君が行き当たったのは、この辺りのものと推測される。予測以上に希薄だったとはいえ----美月くんの同行は何のつもりだと思ったんだ」
眼鏡の奥に苦笑され、ばつが悪くなってきた。
2人で一人前未満の周矢と梓穂に、乱や、同等の実行力を持った者がつくのは、鬼族の派生が予想される場合だ。今件がもし周矢の報告したまま“流れ”の処理なら、乱は同行を承諾しないばかりか、要請もされないだろう。
梓穂にも揶揄された「鈍さ」が、今になって口惜しい。
明確な判断ミスを幾度も重ね、いつも後になって、そうと気付く。
冷静に状況を見ているつもりも、まさに、その気になっているだけ、か、と。
携帯を持っていなかったばかりに、手を付けた現場を離れた今朝。“流れ”だとばかり思っていたからこそ出来た安易。
あの鬼族が力の衰えていたものでなければ、致命的な事態に繋がっていたかもしれない読み違えだったと、嗣治の沈黙でさすがに察しもつく。
なれば周矢のやるべき事はひとつだった。
「すんませんでした!」
「それが遅すぎると何度叱責してやれば身に付くだろうな。周矢、」
カタリと木戸が開き、聞こえて来たのは耳に心地よいほどの声。
今はまだ柔らかさ残すそのテノールに怒鳴られるのはやはり日常なのかと、十分な自覚にこそ落胆する。
「あっ……と、遼さん! 今の聞いてたんスか」
驚いた様子で進路を開けた寮員達の前を、片隅の別室から真直ぐに次長席へ。受け取った報告書を一瞥し、『一条』筆頭・礼斎遼(あやときはるか)は、当然とばかりに腕を組む。
「この俺へ未報告だとでも思ったか」
「……そうスよね」
「今件は完遂として扱うが、初動から次長預かりになった手間を忘れるな」
「はッ、はい!!」
直立不動からもう一度、大事へ至らなかった意味に下げた頭は、再び苦笑させるだけの、いつも。傍らの小さな嘆息にだけは気付かないふりをした。
「美月は?」
「逃げちゃいました」
「あいつにも学習能力は無かったな。----と、省吾!」
「はいな? って、ちか兄発見!!」
と、開け放しの室内へ気楽に顔を出した里見省吾は、通りすがりを呼び止められた理由よりも笑顔を選択し、
「もう怒られてはるんか。さすがにちか兄は違うわ」
「てめっ、俺が補習だっつって言いふらしてんじゃねぇよ」
「周矢はどうしたって聞かれたら、ホンマのこと言わなあかんやろ」
「進学ギリギリがえらそうに」
「あ、ムカっときたで、これ。サッカーかもしれんってたまに嘘言うてあげてたのにな。もうエエわ」
「なら、俺の用件を先に済ませてもらおうか」
愛想笑いを少年に浮かべさせた遼は、抱える荷物へ報告書を追加し、
「見かけたらでいい。此処へ来いと、銀色に伝えてくれ」
「んんと、今の紙きれは何でっしゃろか?」
「執務室だ」
「……戻りはるんですよねえ?」
「そのうちな」
と、踵を返した先は今しがた出て来たばかりの隅の部屋。
梓穂は首を傾げ、何事かと見送る寮員達。もう暫く宜しくと遼に言い置かれた嗣治は、皆の視線に簡潔だった。
「仕事に戻りなさい」
「気になるって」
「そうでっせ師匠。何でボスが調査室? トラブルか事故か、エラい事でもあったんでっか?」
少年少女が興味深々で指差す部屋は、常から寮員以外の立入は歓迎されていない。
張り巡らされた指標を軸に異変を読み取っていくという、彼等の優れた感知能力は、静穏の中でこそ最大限発揮される。交代時以外に扉の開閉も敬遠される程の配慮は、ひとえに周矢達前線要員が蒙る危機軽減の為である。
いわば『一条』の最重要支援機関へ、普段なら近寄らない遼が何故篭ってしまうのか。
梓穂や省吾ならずも、その理由に周矢とて興味は沸いてくる。筆頭の肩書きを持つ彼が調査室と通称される部屋へ入るなど、重大事変の発生が前提だ。
しかし遼よりも身近な管理者たる嗣治は至って平静。だからこそ梓穂と省吾も食い下がる。
「勘が鈍るんだそうだ」
躊躇いはわずか。答えは一言。
省吾があからさまに顔を歪め、
「まさか、それでずっとおらんかった、とか」
「偶の機会だ。試したい事もあるらしい」
「人に朝から探させといて、ヒキコモリかいな。やってられん。自分で持って戻れっちゅうねん」
「だから志朗が詰めてるだろ」
「珍しい。志朗さん帰って来てんの?」
「おう。昼飯一緒に食うたきりで、そっちも忘れてたけどな。閉じ込められとるとは思わんかったわ。ついでに行ってくるか」
ほな、とあっさり出て行った省吾の鼻歌遠くなり、ようやく職務の気配が戻ってくる。途端に忙しさ復活すれば、用の済んだ周矢や梓穂の居場所はない。
「遼さん、いつから入ってるんスか?」
敷居を越える間際、周矢がそう訊ねてみたのは、省吾の言に抱いたまさかの確認。
だが嗣治は今度こそ無言で、笑ってみせてくれただけ。
知らず周矢の顔が歪む。
「ご愁傷様」
何を勘づいた少女はそう言って、背中をまた叩く。
生真面目なその表情。
今度ばかりは訂正も、否定も、さすがに叶いそうになくて。
周矢はただ同意の頷きを返すだけだった。
【朔】 遭遇するもの
20080122
image by 七ツ森